2013/10/11

E-girls / ごめんなさいのKissing You




E-Girlsの本領を発揮する作品


EXILEの妹分(というか事務所の後輩)としてデビューしたガールズグループ、E-Girls。二十代後半から十代前半まで幅広い年代のメンバーが所属し、アメリカン・ハイスクールのチアリーダーみたいなスポーティなパフォーマンスが特徴のグループだ。これまでも、4枚目のシングル「NEVER ENDING STORY」でオリコン2位を獲得するなど、長くないキャリアに対して十分な成功を収めて来た(ように見える)が、一方で、グループ最大のアピールでもあったその「NEVER〜」がカバー曲だったことも災いして、EXILEの妹分というキャッチフレーズ以上のインパクトを持てないまま、ここまで来ていたという印象も少なからずあった。要するに、どこかパッとしなかった。だが、そんな時期にもいよいよ終わりを告げることになるだろう。本作「ごめんなさいのKissing You」は、彼女たちの一般的なイメージを確立する作品となるはずだ。

テンポが早く、なおかつ裏を強調した軽めのリズムと、スカスカのプロダクションが特徴のこのエレポップで描かれているのは、男友達との食事を浮気と疑われ必死に謝っている女子の心境。シチュエーションだけ聞くと、いわゆる“修羅場”みたいなものを想像するかも知れないけど、それよりは全然かわいいヤツ。逆に言えば、まだまだ「謝れば済む」段階の話だ。チアリーダーめいた賑やかなメロディや、テンポのいいアレンジの展開(途中ダブステップ的なアレンジも登場するが、あくまで曲中の1バリエーションとして、いかめしくなり過ぎて曲の持つヴァイヴを壊さないよう制御されている)などが強調するように、むしろこの曲の中心にあるのは、フワフワと能天気な恋の楽しさの方だろう。サビの後半で、しなっとデレてみせるところの展開も良い。

恋だ愛だと言えば、ふたこと目には「命を掛けて」とか「一生あなたを」みたいな重い言葉が出てくるラブ・ソングに比べて、こういうカジュアルな恋愛ソング(シチュエーションにもひと工夫あるし)が際立って来るのはとても健康的な気がする。

それにしても、こないだのEXILEもそうだけど、LHDって、目新しさは全くないものの、クオリティの高い曲を出してくる印象。母体がavexだからかな? 恥ずかしながら今回まで知らなったんだけど、作曲のCLARABELLは、ビースティーズ絡みのイベントをきっかけにデビューした作家のようで、他の仕事も掘り下げてみたい(あと、余談だけど、ヴィデオは全然Shortじゃなし、アレンジも音源とかなり変わってるので注意!)


(佐藤 優太)

2013/10/04

EXILE / No Limit





EDMの導入が浮き彫りにする、グループの積み上げたもの


自分を信じて挑戦し続ける限り、成長に限界なんてない。というビジネスマンの題目的なメッセージを、EXILEらしい哀愁漂うメロディに乗せて歌うEDM歌謡曲。自信というか度胸というか、そういう威勢の良さがみなぎっているところは勿論、<この体が消えるまで>なんて虚無をちらつかせるところまで含めて、成功者らしいテーマを持った音楽だ。

作曲には4人の名前がクレジットされている。メジャーかアンダーグラウンドかを問わず、数多くのラッパー・歌手のトラックを手がけるビートメイカー BACHLOGIC、R&B系アーティストへの曲提供の多いFAST LANE、そして、安室奈美恵の「Go Round」など今でいうEDMタイプの作品を多く手がけるTesung Kim&ANDREW Choi。一般的にも、EXILEの楽曲にはハウスやバラードのイメージが強いが、「Each Other's Way 〜旅の途中〜」や「24karats STAY GOLD」などBACHLOGICが手がけた曲には比較的ヒップホップ寄りのものが多かっただけに、ブレイクを多用した4つ打ちをベースにした本作を聴いた時、最初はちょっと違和感があった。全然ヒップホップ関係ないけど?と。

で、前述の4名の仕事ぶり手がかりに予想した制作行程は以下の通り。①まずATSUSHIが詞を書き(TAKAHIROのインタビューを読む限り詞先の可能性が高い)②それを元にFAST LANEがメロディを下書きした上で、③Tesung Kim&ANDREW Choiが曲のウワモノのアレンジや全体の構成をまとめて、④BACHLOGICがビートを打ち込んで行った。そう考えると、音色といいフィルのアレンジといい、今作のビートにはアナログっぽい手触りが感じられる(ような気がする)。余談だけど、「EDMっぽいウワモノとヒップホップのビートの組み合わせ」というアイデアは、今年出たKREVAのアルバム『Space』でも採用されていた。

まあファンの95%はそんなこと気にしてないだろうけど、こんな風にあれこれ考えちゃうのも、EDMの粗暴さに全く回収されないヴォーカル2人の歌があってのことだということは絶対記しておきたい。普通この手の曲だと、ヴォーカルが大味なメロディになったり、やたらとエフェクトを掛けたりして、トラックになじませようとするものなんだけど、この曲にはそうした配慮はほとんどない。もっと簡単に言えば、この音楽性に対して歌がうま過ぎるのだ。終盤になって多声コーラスが入って来るのとか…思わず笑っちゃうけど冷静に考えるとかなり変わった展開なんじゃなかろうか。

そもそもEXILEというグループ自体、80-90年代のブラック・コンテンポラリーの系譜に連なるグループとして、ダンス・チューンでありながらしっとりとした歌を聴かせるという、一見矛盾しそうな2面を両立し続けて来たグループだけに、たとえアレンジがEDM側に振れても自分たちの芯はブレさせない。という気合い?業?のようなものが感じられて、センパイさすがっす!みたいな気分になってしまう。やっぱ一朝一夕に積み上げたものじゃないんだよ。

(佐藤 優太)

2013/09/20

Perfume/1mm




アンニュイな気分を引きずるテクノ&B


おぉ、これはカッコいい。まずBPMが110前後というのがいい。やや個人的な意見い寄ってしまうことを承知で書くと、一番グル―ヴしやすいテンポってこのくらいだと思う。けど、こと日本のメインストリームの音楽に関しては、こういうのは案外少ない。さらにこの曲の場合、基本的なリズム構造はハウスの4ビートであるにも関わらず、ハット(金属音?)を1拍目の頭と2拍目の裏に置いてみたり、シンセの出音をアタック(=音の立ち上がりを表すパラメーターね。念のため)を強めにしてパーカッシブに聴かせてみたりと、リズム面で色々と工夫してて、ぱっと聴きではハウスっぽく聴こえないようになっているのも面白い。

楽曲自体も、コード進行を展開させて、肉付け的にアレンジして、というオールドスクールな方法ではなく、メロディやリズムの抜き差しによって曲を組み立てる、ダンス・ミュージック的な作曲法の応用。こういうのを聴くと、やっぱ中田ヤスタカってメインストリームど真ん中で活躍する作曲家としては、かなり異色というか突端だと実感する。英国人テクノ・プロデューサー、サージョンの絶賛にも納得してしまう。向こうでも、ヒップホップをはじめダンス・ミュージック的な作曲スタイル自体は珍しくないものの、ここまで入り組んだものは皆無だもんな。

もちろん純粋なダンス/テクノ音楽として捉えるには、ちょっと展開も多いし各パートも短か過ぎるしで、僕個人としては、もうちょっと恍惚とする部分が長くあって欲しい気もするんだけど、そういうアンバランスさの魅力も分かる。2番で、メインのヴォーカル(主人公)を嘲笑うように勝手に歌い出す変調ヴォコーダーのアイデアとかはかなり好き。

ただ、単発のシングルとしては若干地味かな?と思っていたら、10月にリリースされるアルバムからの先行曲とのこと。タイトルは『LEVEL3』。ふむ。そう言えば、この「1mm」も、日々自分なりに一生懸命にやってても、なんだか何にも上手行く気がしない、いつまでも晴れることは無いかも、みたいなアンニュイな気分を歌った歌詞だし、アルバムは今の日本に漂う「茫洋と悲観的なムード」に対して、何らかのアングルを示す作品になるのかも。アルバムが出る前から深読みするとかバカみたいだけど、きゃりーの『なんだコレクション』にあった、ヒステリックで狂気じみたのテンションと対になるような作品になるのだろうか。なので、年末辺りに両者を関連づけたレビューとかも見てみたいですね。

(佐藤 優太)

2013/09/13

Galileo Galilei/サークルゲーム




幼なじみというコミュニティについて歌った、そよ風のような爽やかな曲


「サークルゲーム」が主題歌となったアニメ『あの日みた花の名前を僕たちはまだ知らない』は、男女6人、幼少期からの幼なじみの友情をテーマにした作品で、本作の歌詞もおおむねその内容になぞらえたものになっている。つまり、“サークルゲーム”というのは一義的にはその幼なじみたちの関係の輪の比喩ということになるだろう。だが、幼少期からの幼なじみ、というのは尾崎雄貴・和樹兄弟に小学生の頃からの友人である佐孝仁司を加えて結成されたGalileo Galilei自体にも言えることだ。だから、この“サークルゲーム”は、彼ら自身に掛かっているとも言える。

幼なじみという小さなコミュニティについて歌った本作で、爽やかで線の細いギターのサウンドは、彼らの根ざすであろうナイーヴなコミュニティ観、その友情を連想させる。あるいは、この曲の1・2番でのAメロの展開——歌メロを中心に、複数の楽器が輪唱的に追いかけっこする1番Aメロ、そして16ビートを基調にディレイの利いたギターやシンセがリズミックに絡まって行く2番Aメロ——は音楽的なバリエーションとして、この曲のポップスとしての魅力を広げると同時に、彼らの目線の先にある人間関係における葛藤や昂揚を表現しているようだ(学校、あるいは会社、あるいは街や国と同じように、友人関係にも幾多の幸福とすれ違いがあるものね)。その一方で、アンセムめいた大らかさで歌われるBメロやサビは、小さなコミュニティならではの一体感を表しているのだろう。


もっとも、この曲はそうした小さな友情の輪をむやみやたら賞賛する曲ではない。むしろ、それが崩壊した後に残る何ものかについても思いを巡らそうという曲である。その終焉を感じながら、その未来について祈ること。いつかそのサークルが消えたとしても(その時は必ずやって来る!)、その願いは残るのではないか?という、いささか感傷的過ぎる問いを、そよ風のような穏やかさと可愛らしさで歌い抜ける一曲。

(佐藤 優太)

2013/09/06

Especia/ミッドナイトConfusion




ソングライターとしてのSAWA


大阪を拠点に活動する6人組のガールズ・グループ、EspeciaSCRAMBLES所属のSchtein&Longerが中心となり制作された楽曲は80年代AOR/シティ・ポップ的。甘めのメロディー、かつファンキーな楽曲がいちいちライブ映えして、たまたま見たイベントで一発でハマってしまった。そうした楽曲のイメージと、ど派手で古着的なレトロさを持つ衣装などのイメージから「バブル系」アイドルと呼ばれることも。80年代後半から90年代初頭という実際のバブルの時代と、彼女たちを形作る要素とはずれがあるような気もしなくもないが、彼女たちにとって初シングルとなる『ミッドナイトConfusion』はこれまでの楽曲からぐっと「バブル」に寄せてきた印象。理由は明確で、作詞作曲をSAWAが担当したことによる。

デビュー当初のダンス・ミュージック中心の活動を下敷きにしながら、シンガーソングライターとしてよりポップスに寄せた形で自身のアルバムや、楽曲提供を行うようになったSAWA。いくつもの陽性な音が散りばめられた楽曲は自身/提供いずれかを問わず共通している。それは「ミッドナイトConfusion」にも当てはまる一方で、抑えられた低音、隙間の多いトラック、4ビートを基本とする複雑すぎないリズム、とバブル期のエレポップ(と90年代JPOP)と合致する要素を用いてEspecia向けに仕上げている。

8月の東京でのEspeciaワンマンライブではゲストとして一緒に「ミッドナイトConfusion」を歌っていたけれども、ソングライターSAWAとしての懐の深さを感じさせる良曲だと思う。
(小林 翔)

恋の媚薬 〜不安と昂揚とミラーボール〜


80年代のAORやディスコからの参照で、春から夏にかけて話題をかっさらったEspecia(from 大阪)。と言いつつ、実は僕は以前の作品は未聴。けど今回聴いて、前評判よりモダンな作風だと思った。「Dam-Funk辺りにも通じるモダン・ブギーのサウンドをベースに、メロディや楽曲構成に近年のアイドル・ポップからの影響と批評的な展開も感じられる、非常によく練られたポップス」。多少強引だけど、まずはそんなアウトラインを引いてみる。

イントロはPVの感じそのまんま。メインのフックである「Eyes On Me〜♪」というコーラス、機械的なファンク・ドラムとクリスタライズドされたシンセが同時に登場するスタートから、8小節進んで、メロディに対してちょっと上ずったようなコードが重なってきて、ガリガリガリッと変調するという展開が、楽曲全体のエコー=残響が提示され、それが徐々に調整されて曲に対してフォーカス&チューンインしていくという感じに聴こえる。

で、主人公の女の子。別に恋愛経験が少ないワケじゃないんだけど、どことなくミステリアスな雰囲気クソイケメンに翻弄されっぱなし。しかも、まんざらでも無さげ。むしろ、ままならない恋愛のスリルまで楽しもう。という、一種のファイティング・ポーズすら辞さない。良く言えば、ちょっと健気なビッチ系? 16ビートを基調とした入り組んだビートや、ヴォーカル・メロディを支えるコード音の少なさ(特にヴァーす)が、彼女の感じてる不安を、キラキラッと飛び交うシンセやシンセベースの類いのウワモノが、彼女の感じている昂揚感を、それぞれに楽曲にトレースして行く。

不安と熱中。相反するとも言える(本当は違うけど)二つの感情が入り乱れる様子を描いた一曲に、Especiaチームは『深夜の混乱』と名付けた・・・ん?混乱?ってことは、実はこの子、意外とクラブ慣れしてなくて、ちょっと背伸びしてるだけの、おぼこい子なのかも。とか思えてきた。その男、きっとロクなやつじゃないからやめなよ!とか、妙な親心が沸いて来る、副次的な作用も味わえます。

(佐藤 優太)

2013/08/30

AKB48/恋するフォーチュンクッキー




「国民的アイドル」を本気で目指すAKB48


 アイドル「帝国」AKB48。代名詞ともなり、地上波で生中継されるまでとなった選抜総選挙、今年はよもやとも言えないほどの圧倒的な得票数で指原莉乃が1位となり話題になった。選挙後、プロデューサーの秋元康は「大島優子、渡辺麻友が1位になった時の曲は考えていたが、指原1位の曲はこれから考える」といった発言をしていたけれども、そうして発表された『恋するフォーチュンクッキー』は大島の曲よりもまゆゆの曲よりもはるかに素晴らしいものとなったと断言する。この曲には「国民的アイドル」というコピー先行に見えた言葉を地で行くような普遍性があるからだ。


 4ビートのリズムの上をファンキーなギター、ぶいぶいと拍の裏を取りながらルート進行するベース、トランペット風のシンセと曲の端々でアクセントのようになるストリングス風のシンセ、ハモリの用とひゅーひゅーと盛り上げるようなコーラスと様々な音が賑やかに鳴る「恋するフォーチュンクッキー」。リズムはシンプルだが上に乗る楽器がディスコぽい構成はいわゆるJPOP直前の歌謡曲そのものだ。(順位に対応して露出が増えるというコンセプト上、各メンバーの声は聞き分けられるし、音数自体の情報量も多いので、そこは今っぽいのだけれども)どこかヘタレで後ろ向きな女の子が少しずつ前向きになっていくラブソングは、指原を当て書きしたものだが、それはつまり「普通の」感情を切り取ったものだ。そういった歌を親しみやすいディスコ歌謡が持つ多幸感に乗せAKB48の多数のメンバーで増幅する。この曲に新しさはない。ただ、40代にも50代にも60代にも届くような間口の広さ、お祭り感がはっきりとある。

(小林 翔)


グループアイドルの限界が露になってるような気も・・・


たしかTBSの『音楽の日』が最初だったと思うけど、発表時から主に音楽オタク・評論家の間で話題騒然となったAKB48の最新シングル。「70年代ポップスあるいはフィリーソウルの影響を昇華したゴキゲンな一曲」という意見から「ダフトパンク新作へのJ-POP的回答」みたいな暴論まで、みんなが思い思いの感想を交換し合うのを、同じ音楽オタクとしてとても楽しませてもらった。ちょっと意地悪な言い方すると、普段それだけAKB48の音楽への期待値が低いことの証明なのかも知れないけど(笑)。

たしかに本作はみんなが「俺にもひと言いわせろ」状態になるのも分かるとても良い曲だ。ただ、良い曲であるがゆえにグループアイドルの限界が露になっているという気もする。好きな人がいるのに自分に自信が持てなくて告白できない女の子を主人公としたストーリーが持つパーソナル性が、何十人もの人が同じラインを歌うというAKB48特有のヴォーカル・スタイルによって、掻き消されてしまっているような気がするのだ。

指原のキャラ設定に忠実なだけで、掘り下げが足りない歌詞にも原因はあると思うし、『フゥー!』みたいなコーラスの下世話なパーティ感も本作の魅力をぼやかしている気はする。けど、やはり何よりも違和感を生んでるのは、サビのパートでのあのヴォーカル。「悲しい出来事忘れさせる」という歌詞が、半ば洗脳的なテレビCMを見てる気分にさせるような、あのヴォーカルなのだ。大型グループの宿命とか言えば聞こえはいいけど、こういう作品を前にすると、どうにもナンセンスに映ってしまう。何か良い手はないかね?

(佐藤 優太)

2013/08/23

サザンオールスターズ/ピースとハイライト



サザンオールスターズ復習用ニューシングル


5年間の活動休止を経て結成35周年のタイミングでリリースされたサザンオールスターズ『ピースとハイライト』。前シングルの『I AM YOUR SINGER』が丁度5年前の同時期にリリースされているが、それも2年ぶりのシングルで、要は結成30周年のタイミングであった。

柔らかなシンセの音から始まり、桑田のコーラスに続いてトランペットによるゆったりと展開していくようなテーマがメインのイントロに移る。隙間が多くボーカルが前に出たオールドクラシックなロック風のAメロ、サザンの曲に度々登場するカスタネットのカタカタという音が記号的に使われているようにみえるBメロ、一旦Aメロに戻ってからサビ。サビ後半部分で桑田は裏声に歌い方を変え、アクセントを加える。『ピースとハイライト』から漂うのはまさしく「サザンオールスターズが帰ってきましたよ」という雰囲気だ。ボーカル、ギター、ベース、ドラムといった一般的な4ピース編成に加えてシンセ、パーカッションが元々いるというのも理由ではあるだろうけれども、今作には上で挙げてきたように「サザンらしさ」が意図的に配置されているように見える。そうした曲をやや勿体つけたようなイントロで聞き手を期待させながら聞かせていく。5年間の空白をあっという間に埋めてサザンオールスターズを完璧に思い起こさせるような曲だ。

(小林 翔)


単純なメッセージ・ソングに終始しない、トリックスターの片鱗


エレピの5音による下降フレーズと、エフェクトが掛けられ浮かんでは消えるギター&ベースの音が、星の降る夜を思わせるパートから曲は始まる。3小節目からはコーラスが入ってくるが、幻想的な雰囲気は崩れない。そのコーラスが、後の間奏部への伏線という意味でも重要な音程の揺らぎと通過すると、スネアのアクセントを切っ掛けにイントロは次の段へ。ベースとギターの存在感がぐっと高まり、いよいよバンドは揃い踏み。勇壮なホーンに象徴されるロック・バンドの登場だ。

バンドの登場を盛り上げた後は、桑田圭佑のヴォーカルを引き立てるべく、ヴァースではシンプルなバッキングへと移る。ここで桑田が歌うのは(一聴すると)平和主義に裏打ちされた反戦/反米/政府批判のメッセージを込めた歌詞。こんな情勢だし、色々思うところあって歌詞を綴っているのは分かるが、内容はちょっと大雑把。更に言えば、サザンのようなエスタブリッシュメントが、完成度は高いがポップスのクリシェもたっぷりな王道的ポップ・ロックに乗せて、この手のメッセージを歌うことに、コミットできない人がいるのも分かる。

ただ、前言を覆すようだけど、この曲は単純なメッセージ・ソングに聴こえない部分があって、個人的にはそこが興味深い。特に最終コーラス「愚かな行為も」という歌詞が「愚かな恋も」と掛かっているように聴こえるのとか、邪推かなと思いつつ、過去の過ちを忘れる人の愚かさを絶望すると同時に、そこにニヒルなロマンも感じてるような、サーカスティックな感性/トリックスター的な複雑さを見るようで、ちょっと好き。なのでYouTubeで交わされてるあの手の議論とか、ほぼ100%意味ないよ!

(佐藤 優太)


2013/08/15

夏海/山崎あおい



爽やかに歌われる宙ぶらりんな感情


もちろん、人を好きになったことはある。しかし、その初恋は結局うまく行かなかった。それ以降、恋と呼べるほどの感情を抱ける相手はいない。そうこうしているうちにも夏がやってきて、クラスの友達たちはそれぞれの恋人と遊びに行く計画を立ている。嫉妬とは違う、どちらかと言えば失恋にも似た、仄かな寂しさがこみ上げてくる。そんな宙ぶらりんな感情を持て余したまま、しかし暗くならないよう気丈に振る舞う。山崎あおいが描く本作の主人公はそんな女の子だ。

『夏海』はこの夏のプチヒットとなっているけど、チャートの他の曲と比べてこの曲が突出したのは、「今年の夏もまたひとり~」という歌詞に象徴される主題の明確さゆえだろう。山崎の澄んだ歌声も、その歌詞の持つ切なげな感情を伝えるのに一役買っている。また、コブクロ等との仕事で知られる笹路正徳のプロデュースも、どうにも湿っぽくなりそうなテーマを持った曲に、明るく爽やかなフィーリングを補っている。

歌を支えるバックの演奏も良い。楽曲が進むに連れて細かくアクセントやフレーズを変えて行くのは、いわゆるポップスのクリシェとは言え、主人公の細かな感情の揺れを意識させつつドラマチックに楽曲を盛り上げている。特にラストのミドルエイト〜大サビ〜アウトロの流れには聴き所が多い。

この曲の完成度的には申し分ないけど、リリックを除くと山崎自身の個性が感じ辛いのが難点と言えば難点(本人も公言しているように、そのスタイルにはYUIからの影響が大きい)。また、彼女の武器である歌詞にしても、ちょっと説明的で野暮ったく感じる。テーマ設定における勘の良さみたいなのはありそうなので、それを曲に落とす技術が今後どうやって洗練されて行くのか気になる。


(佐藤 優太)


夏の海で草をはんで疲れた


札幌出身のシンガーソングライター、山崎あおいのシングル『夏海』。アコースティックギターを中心としたミドルテンポの曲にのせて「強いから平気って/また一人になりたがる私/疲れたみたい/今年の夏もまた一人」という歌詞の通り、夏の女の子の切ない気持ちを歌う曲。所々でみせる鼻にかけるような歌い方と、フレーズの最後を喉を絞るように発声する様はYUIの影響が感じられる。ただし、声の質としては山崎の方が伸びやかで丸みがあり、声量も多そう。

歌詞のモチーフ自体は誰もが共感させられざるをえないほど一般的なもの。加藤ミリヤや西野カナが(渋谷という街のイメージと結びついたりして)ギャルの切ない恋愛を歌うのと比べても、その核は概ね変わらない。変わるのは楽曲のイメージを具体化する細々とした要素。そこに包括される形で用いられるサウンドにも違いが出ている。

そういう目ではのっぺらぼうのように見え聞こえてしまうのは事実。とはいえでこの曲では「疲れたみたい」という歌詞に何やら歌謡曲的言葉遣いの匂いがして引っかかった。「疲れた」という自分の状態を「みたい」という、婉曲しながら断定する助動詞をくっつけて、どこか他人事のようにぼんやりと歌う風景は松山千春「恋」(1980)森進一「悲しいけれど」(1987)とかに出てくるものの、以降のJPOPにはほとんど登場しない。もちろん最近ではキマグレンでも言葉自体は入っているので、たまたまの可能性の方が大きいけれども。

それにしても「疲れたみたい/今年の夏もまた一人」とか、最近のJPOPの歌詞、草をはむような及び腰のものが多すぎるような気が。

(小林 翔)


2013/08/09

サマラバ/シド




ヴィジュアル系の中に生き残る90年代


今年活動10周年となるシドのシングル『サマラバ』。いわゆるヴィジュアル系バンドとしてデビュー後、メイク自体は薄くなってはきているけれども、元々のイメージをある程度保ったまま活動してきた印象。ヴィジュアル系、というジャンルはグラムロックとかと同じようにバンドのヴィジュアルに定義が偏っているので音楽的には(ゴシック的な雰囲気を持つV系のバンドが多いにしろ)多種多様で、独特のフリを踊るファンとのライブも含め、今ではアイドルと並べて捉えられることも少なくない。

『サマラバ』は爽やかで夏らしいギターのイントロ、跳ねるようなギター・カッティングの裏で何層にも重なるギターやトランペット的な音色のシンセによるメロ、そこから四つ打ちのサビへと展開していくとにかく賑やかな曲。沢山の音を同時に並べながら組み立て、そこに直球で開放感のあるボーカルを乗せて一気にポップスとしてまとめてしまう。シドのこうした音や感覚は好きなミュージシャンとして黒夢やBOOWY、LUNA SEA、B'zといったバンドを挙げている通り、90年代の歌謡曲・JPOPに直接接続しているものと言っていいだろう。2000年代以降、R&B、ヒップホップといったビートが先行する曲が増えた中で(それでも売れるのはメロディアスな要素を持つものではあったが)数を減らしていた90年代JPOPはヴィジュアル系やアイドル、アニソンへと姿を変えて今に至っているのではないかと妄想をする。





大人になった?V系バンド


カッティング・ギター、スラップベース、ホーンにストリングスをフィーチャーしたディスコ・ロック・サウンド。ただ、基本的には抜き差しを含めたコードの展開と歌、BPMの早いディスコビートが曲を牽引していて、カッティング・ギターにせよスラップ・ベースにせよ、その用法は曲の根幹というよりは飾り。歌謡曲をベースに、モダン・ロックやディスコのアレンジを取り入れた、日本的ミクスチャー・ポップという印象かな。

そんな感じで、トラックにはほとんどV系の要素は残ってないのだけど、ヴォーカルの喉から絞り出すような歌い方には、まだV系の要素が残っている。でも、そもそもV系ヴォーカルのあの特有の声って、青年期に感じる居心地の悪さと、その反動としてのポージングの象徴だと思うんだけど、恋人と出掛ける夏の海で、いつもと違うシチュエーションに、改めて惚れなおしたわ。みたいな光景を描いた本作の中で、主人公が何に違和感を感じてるのか?というか、果たして違和感を感じてるのか?正直よく分からない。

様式美。と言われるとそれまでなんだけど、僕は様式に意味を求める分、様式美には全然興味がない。ディテールにこそ作家の本質が表れると思う。青年が大人になるのは当然で、それは全然悪いことではないのだから、もういっそのこと全部変えてしまって、もっと大文字のポップへと振り切ってもいい。よく「V系のバンドは成功すると次第に化粧が薄くなる(=既存のファンを切っていく)」と言われるけど、ファンよりも芸術に誠実でいるってのは素晴らしいことじゃないか。



2013/08/02

笑顔/いきものがかり



主題歌仕様のいきものがかり


いきものがかり『笑顔』は6thアルバム『I』に先行する形で発売された今年2枚目のシングル。ミディアム・テンポ、どこか切なく歌い映えするメロディー、ポケモンの劇場版の主題歌のタイアップがついている通りの「主題歌仕様」のいきものがかりが聞ける曲。ゼロ年代後半からJ-POPシーンを継続的に支え、様々なタイアップを経験してきた余裕みたいなものが「笑顔」にも見て取れる。

フックするアコギのループとコードを刻むピアノ、ゆったりと響くストリングスがメインで引っ張る曲は癖がなく、親しみやすい。こうした曲の裏でも(音は小さいものの)エッジの効いたエレキギターの音がするのが特徴的。アッパーな曲の方が分かりやすいけれども、いきものがかりはスタンダードなアメリカのロックみたいなものを根底に持っているものの、そこに音色なりフレーズで遊びを差し挟みながら聴きやすいポップスとして提示している。そんなわけで彼彼女たちは実は器用なバンドでもあるが、その器用さが楽曲の力強くストレートなメロディー、軽やかさ、親しみやすさ(ポップスそのもの)に寄与しているところが面白い。そういった意味で『笑顔』はもちろん嫌味のない曲ではあるのだけれども、若干物足りない印象。今年発売したシングルでも『1 2 3〜恋がはじまる〜』は「CM仕様」で遊びのあるポップス。




力の抜けた、さりげない魅力


「日常の会話で使わない言葉は歌詞にも使わない方がいい」
今では疎遠になってしまった、学生時代の友人の言葉だ。10年近く(!)経つが、まだ印象に残っている。(彼も歌詞を書いていた。)恋人への思いとか、家族への感謝の言葉とか、そういう“大切な言葉”を、我々は普段の生活ではほとんど口にしない。では、どこで示すのかと言えば、まず第一に式典事であり、第二に歌の中で、だ。

そう。歌の中で、私たちは、普段気恥ずかしさゆえに口にできない感情を言葉にする。その是非はここでは問わないが、しかし、その友人の法にしたがえば、それは「しない方が良い」ことになる。もちろん芸の世界に絶対はないけど、いきものがかりのいくつかの楽曲の歌詞が、どうにも白々しく聴こえてしまうるのも紛れもない事実だ。それは、全ての音を等価に扱うために、全体的にのっぺりと聴こえてしまいがちな吉岡のヴォーカルにも少なからず原因があったと思う。

そんな風に感じていた人間にとって、本作で聴こえる彼女の歌は魅力的だ。少しコブシが効いていて、ミディアムテンポのバラードに合わせる歌としてはリズミックで、良い意味で身軽さがある。歌を支える演奏もいい。タメの効いたドラム、力の抜けたギター。いとも簡単にこういう完成度の高いポップスを作れてしまう、現在のバンドの抜けっぷりを感じる。この演奏と歌を伴えば、今まではどこか押しつけがましく感じていた彼らの言葉にも、「本当に自然な感情として湧いて来たのだろうな。いや、分かるぜ」という気持ちが芽生えそうになる。

そんな「さりげなさ」が魅力の曲に対し、これ見よがしなピアノやストリングスのアレンジは蛇足だろう。サビ終わりに「ドレミ~♪」と上昇して行くメロディも陳腐で過剰な装飾に感じる。(先ほどの素晴らしい歌も、後半の盛り上がりに向けて段々ノペっとして行く。残念。)もっと裸に近い状態のバンドを、音像に刻んで聴かせて欲しい。あんま期待はしてないけど。



2013/07/26

友達より大事な人/剛力彩芽




プロトタイプのデビュー作  


テレビにドラマに映画にとマルチに活動している剛力彩芽のCDデビューとなるシングル。四つ打ちで縦ノリのメロディアスなサビを持つポップ・ソング。一方そのサビを強調する意図もあってかAメロはベースの表裏がフレーズの途中でひっくり返って突っかかるようなリズムになっている。ベースとボーカルだけをメインにしていることもありユニークだがやや心もとない気配も。  

ボーカルは普段の彼女の声と同様に中性的。率直に、歌唱力で勝負するタイプではないけれども、それ自体は現在のアイドル・ブームを見ても分かる通り、現在ではキャラとか個性として捉えられるべきだろう。ただ、問題なのは彼女の他の仕事と同様に楽曲が無難さへ収斂させられているように見える点だ。例えば「友達よりも大切な人」というタイトル、親友に対する思いを表す歌と分かりやすいがクリシェ的な言葉遣い、こうしたものがいちいち彼女の歌からキャラを奪って、印象をのっぺりとさせてしまう。ちゃんと成立しているポップスであり、楽曲的な面白さも持っているが方向性が定まらず散漫な印象。 

ただし、PVで彼女が見せるダンスはきれきれ。今後、ダンスを糸口に映像とかパフォーマンスを含めた中でどう活動していくかには興味がある。




人口的エクストリーム


ひたすらウェルメイドなサウンドが主流だった時代への反動として、あえて音を整理せずダーティなまま提示するのが最近のJ-POPのトレンド。この曲の、BPM140のイーブン・キックに、オーケストラル・ヒッツ、カノン風のピアノのメロディ、スラップベースなどのポップスのクリシェを適当に盛り込んでみました風のアレンジや、ヴォーカルからコーラスからシンセから、全ての音に強烈に掛かったエフェクトは、おおむねねそのトレンドにのっとったもの。

まあ、要するに“やっつけ”なんだけどと、この曲が面白いのはそれが徹底されているところ。何よりも“いい歌”に価値を置くという文化的な風潮もあって、たとえ女優の片手間的なリリースであっても、どうにかして生身の歌を聴かせようという努力がオリコン・チャートの多くのケースで見られるのだけど、この曲にはそうした配慮はほぼない。むしろ声を一つの素材とみなし、その上からちょっと異常な歪み方をしたシンセを大胆に被せたり、バカバカしいほどに強烈にエフェクトを掛けたりしながら、プラスチックで、プラクティカルで、ちょっとスプラッタなポップスを作るという狙いに、何の躊躇もなく振り切っているようにすら見える。

「友達じゃない」という宣言から始まってそれをひっくり返すという技巧的な部分以上に実は内容の方がぶっ飛んでる、いしわたり淳二の歌詞も面白い。(単に労を避けたのかも知れないが)アウトロが短いのもパンキッシュで潔い。いま、“情”という概念から最も遠いポップ・ソングと言われたらコレだろう。曲の構造がもうちょっとフリーキーだったら、もっと面白かったかも。



2013/07/19

Love Is In The Air/AAA


キラキラ・ミュージカル・アイドル


ミュージカル音楽のようだ、というのが、本作のサビでフィーチャーされた男女混声のコーラス・パートを聴いたときの第一印象。そう、ほんとミュージカルみたい。やたらと技量が高い上に抑揚がハッキリしているため、時々その肉体感すら感じてしまう歌やラップも、ミュージカルの役者のそれとよく似ている気がする。歌にもダンスにも妥協しないというAAAというグループのコンセプト、彼らの所属レコード会社が持つ育成システム、そして何よりも彼ら自身の人並み外れた努力が、彼らにそうした個性を授けたのだろう。アイドルと呼ぶにはかなり異形に映らなくもないが、本来的な意味ではむしろこっちを指すのかも。

彼らの個性を踏まえてかは分からないが、本作はリリックもミュージカル的。大雑把に言えば、“夏と恋”というありがちなテーマを持つリリックなんだけど、主人公の1人称の視点から描かれる“ストーリー・テリング型”の歌詞ではなくて、複数の人物の視点が混在する“群像劇型”の歌詞になっているところが個性的と言えば個性的で、このグループの持ち味にハマってる。

ドッカン・ドッカン打ち鳴らされるハウスのビートや、幾重にも折り重なるシンセのメロディは、そうした群像劇の背景にある開放的なムードを表現しようとしたのだろう。特に、後半に進むにつれ盛り上がっていくシンセのメロディの抜き差しの細かさはなかなかに圧巻・・・なのだが、ヴォーカルを引き立てるためか、それぞれのメロディの分離がイマイチで団子状態に聴こえちゃうのはちょっと残念。実力も個性もあるパフォーマーが揃っているだけに、このあたりのプロダクションとのバランスについて最適値を探すのはなかなかしんどいだろうが、全部がばっちりキマッたときの爆発力もすごそう。




国道ポップス


AAAの37枚目のシングル『Love in The Air』。四つ打ちを基本としたミドルテンポの楽曲で、男女混合のメンバーそれぞれの特徴を生かすため、メロ、サビともに数種類のフレーズがあり、それが淀みなくつながっていく。全編に渡って非常に伸びやかなメロディーと、爽やかで耳障りのいい音作りが印象的。

そればかりを言い過ぎるのは一面的だけれども、AAAには「イニシャルD」の主題歌でデビューして以降、断続的なキーワードとして「車で流して映える音楽」というのがあるように思う。この曲に関しても、細かなプロダクションがメロディーに集中して、リズムはシンプルであり、先にも書いた通りまるでほかの何かを邪魔しないよう「聞き流しやすさ」に注意を払っているかのようだ。それは多分渋滞ばかりの都心ではなく、郊外の国道を気ままに走る風景だろう。(実際のコアなリスナーがどこにあるかは興味のあるところ)

嫌みのない音色、J-POPでは抜き出た歌唱力、男女混合ユニットでのダンス・パフォーマンスも含めた見せ方はどれをとっても完成度が高い。それが今の時代とどう接続できているかということについては少し難しいのかもしれないが、その接点があるとすれば「車」なのではないか。




2013/07/12

高嶺の花子さん/back number



ナイス他力本願


8枚目のシングル『高嶺の花子さん』をリリースした3人組のロック・バンドback number。9月には初の武道館ライブも控えているなど、2009年のミニ・アルバム発売から着実な人気を獲得してきた。

「高嶺の花子さん」はよもや40過ぎのおばちゃん的用法とも言ってしまっていいタイトルが非常に印象的。とはいうものの、緩やかなストリングスから始まり、爽やかなギターのアルペジオに絡み付くドラムのイントロ、シンプルだがキャッチーなボーカルで引っ張っていくAメロ・Bメロ、そこからさらに裏打ちで跳ねる楽曲に乗る一段とメロディアスな歌声、とこれぞJ-POPという完成度の高さ。(蔦屋好位置プロデュース。)ノイズっぽさは削ぎ落としシンプルに歌を聴かせるスタイルは以前から継続しており、歌の内容も同様に独特の凡庸でうだつの上がらない雰囲気が漂っている。


この「高嶺の花子さん」という曲も、高嶺の花な女性に憧れる主人公が色々な思いを巡らせるだけ巡らせて、「あるわけないか」と言って、特に思いを伝えるわけでもなく閉じてしまうような内容になっていて、「もうどうにでもなあれ」的な投げやりさがタイトルにつながっていると読むこともできる。今でこそ随分突き放して書けていても、どれだけ強く思っても上手く行くように思えなくて「夏の魔物に連れ去られ 僕のもとへ」と他力本願になってしまう感覚には身に覚えがあるような気がしてきて妄想する。Led Zeppelinにかぶれていた高校生の自分がこの曲を聴いても「J-POPはクソばっかりだけどこれはいい曲だわ」とか何とか言っていたはずだと。



冴えなくても夏休み


帰宅部ないし文化部。身長も別に高くないし、成績もパッとしない。で、色白。
本作の歌詞から浮かび上がってくるのは、どこの学校にもいる冴えない男子の姿だ。そんなヤツが“友達の友達”の、とびきり可愛い女の子に向ける想い——ひと夏の恋とすら呼べない未成熟な感情、夏という季節につきものの欲情の浮き沈み——を描いた一曲。

女の子のことで頭がいっぱい、つまらない劣等感ととりとめのない妄想に悶々とするA・Bメロから、「なんかよくわかんないけど俺のモノになってくれないかな〜」という都合よすぎな願望が、オクターブ・ベースに彩られたディスコ・ビートに乗せて一気に噴き出した、かと思いきや、最後には決まって“な、わけないよなあ・・・”というため息混じりのオチへと至るサビまで、ここで表現されているのは主人公の欲情が夏の暑さに煽られるように膨らんだり萎んだりするプロセスそのものだ。もちろん本人だって情けない自分に満足しているワケもなく、ヴォーカルには「高嶺の花子さん」を前に尻込みしてばっかりの自分への自虐的な苛立ちも表れている。

とは言え、全体の印象としてはウジウジもトゲトゲもしてない。むしろ爽やか。これにはイントロや間奏に特徴的な、いわゆるヨナ抜き音階による“ジブリ=日本の夏”っぽいメロディがもたらす涼しげな雰囲気の影響も大きい。そのサウンドからは、冴えない季節を通過した人間ならではの郷愁めいた目線も感じる。“意識高い”って言葉が揶揄になっちゃう世相を思えば、こういう音楽が広い支持を集めるのは当然なのかも。




2013/07/05

ゴールデンチャイナタウン/Berryz工房


バブリーチャイナタウンポップス


キャリアが10年を越えたハロプロのアイドル・グループBerryz工房のニュー・シングル『ゴールデン チャイナタウン』。そのタイトル通りの中国っぽいメロディーがアクセントになったポップス。

"チャイナタウン"と名を冠する曲は日本の歌謡曲/J-POPに連綿と続いている。その中身はそれぞれだけれども、この曲は「高層階から眺める夜空/星がきれいね  starlight」「甘い甘いチャイナタウン 金貨のプールで泳げば煌めく tonight」といった記号的なまでにバブリーな歌詞が全編に渡って展開していてチャイナタウンというかむしろ上海あたりのチャイナそのもの。景気のよさでは過去類をみないのではないかと。

チャイナと「〜しちゃいな」をかけるクリシェが控えめに何度か用いられているものの、全体としては遊びの少ない歌詞。それを数フレーズごとにシンプルに受け渡して歌う。曲はAメロと変則Aメロが繰り返されてサビ間奏という王道な作りで、イントロ間奏だけ拍子が変化するものの全体としては一貫した雰囲気で、5分半の曲としては淡白な印象。

つんくプロデュースの曲はこれに限らず、その時々の今っぽさからずれていることが特徴だとは思うけれども、この曲に関しては新鮮味のない場所へずれて、こじんまりとしてしまっていて、プラスに働いていない。他のユニットともどももっとはっちゃけるのを期待。


見栄っ張りなUED(歌モノ・エスノ・ディスコ)  


自身が本来得意としていたタイプの音楽を下地に、EDM以降のプロダクションを融合するというのが、ここ最近のつんくのモード。ざっくり言えば、ハロプロの本隊とも言えるモーニング娘。はそのベースにいわゆる歌謡曲が選ばれ、副隊であるBerryz工房の場合はちょいエスノなディスコ・ファンクがベースになっている。

もちろんどちらのグループも、歌モノであることに変わりはないが、それでも両者の差異は結構はっきりしている。前者の場合、あくまで楽曲の中心に歌と言葉にある。その結果、最新のシングルの「ブレインストーミング」のように、構造的にかなり入り組んだフリーキーな仕上がりになることも少なくない。それと比較すると、本作はEDMのスタイルを取り入れながらも、オリジナルのディスコ・ミュージックに寄っていて構造的にもシンプルだ。

そうしたトラックの上に乗っかるのは、意味やストーリーを語るのではなく、気だるく金満っぽいムードを醸し出す役割を果たすリリック。ゴールデンチャイナタウンという言葉がそのままタイトルになったもの、何らかのメッセージというよりは、その挑戦的な意味合いと、何よりも音の響きが気に入ったのだろう。

その結果浮かび上がってくるのは、ゴージャスで刹那的なポップスの意地というか、語弊を招く事を覚悟で言えば、見栄みたいなものだ。外国のやつらに負けてられへん!バチンとかましたる!そんな心意気も感じる。となると、(あまりのカットアップ感ゆえに半ばサイケデリックな領域まで踏み込みがちな)本隊との差別化のためにも、もっとオーセンティックな情念、ソウルを歌っても良い気がする。








2013/06/28

Colorful Life/Dorothy Little Happy


ただアイドルであるという良心


個人的なことを言ってしまうと、Dorothy Little Happyはここ最近で一番推しにくいアイドルだ。彼女たちはただアイドルであるから。
今年2月の1stアルバム/リリース後では初となるシングルは、イントロのきれいなアルペジオが印象的な爽やかでストレートなポップス。身の回りに流れていく日々を色鮮やかだと歌う前向きな歌詞。タイトルはどの付く直球、「coloful life」。これまで同様彼女たちは“いかにもアイドル”だ。

考えてみると、一つ前のアイドルブームを牽引したモー娘。の頃からずっと、そのブームの真ん中にいたのはアイドルらしからぬアイドルだったのではないか。(AKBは曲自体は直球ではあるけれども、総選挙や握手会などのビジネス的仕掛けにフックしている人がいるのも事実だと思う。)曲がロックだとか、○○しちゃうアイドルといった、「アイドル然」としていないことが今の多くのアイドルの売りであり、それはアイドルを聞いていることへの一つのエクスキューズになっている。少なくとも自分にとっては。そうやって迂回してアイドルに熱を上げる人間にとって、ポップで可憐な曲を真剣に歌って踊るドロシーの姿はあまりにも純粋すぎるのだ。

そういう回りくどい目線からは、ドロシーはいわば聖域に見える。彼女たちを推すことができるのは、アイドルが好きで好きでたまらないからアイドルを推している、そういった人たちなのではないかと。ただ、こうした彼女たちの周囲に、アイドルと観客のクラシックな風景があるような気がして、推すまでに至っていなくても、自分はドロシーを目で追い続けてしまうのだ。


真っ白なキャンパスを前に想像する少女(の想像力を疑う)


威勢のよいタイトルとは対照的に、本作の主人公の目の前にあるのは、まだ真っ白なキャンパスだ。これはカラフルな“現在”についての歌ではなく、“未来”についての歌なのだ。

よくよく歌詞を聴いてみると分かるのだが、実はこの主人公は未来のことばかり歌ってる。未来は変わる。いつか変わる。あなたと出会うことで変わる。“カラフル・カラフル”と強調する割に、なぜかその中身が具体性を帯びてこないのも、歌っている本人ですらまだ想像できていないから。80sギタポ風アルペジオのイントロも、ヴァースを引っ張るミュート・ギターのリフも、爽やさ以上の何かをもたらすことなく、その無記名性をひたすら強調するようだが、それもこの主人公の現在地——白紙——を思えば当然のことだ。

もちろん、未来のことは分からないので、どんな“カラフル”な想像をするのも自由なのだが、“ライフ”についてはほんの少しだけ。

僕にとっての“ライフ”とは、ドブのような鉛色に染まりそうなところを必死で白色で薄めてなんとか「ん〜灰色?」という状態をキープしている日常のことであり、ほんの時たま、そこに美しい朱や青が(欲を言えば金も)入るその美しさに涙を落とす日々のことでもある。

「え?何の宣言すか?」と笑われそうだが、極彩色の絵よりも、そういうものの方が好きなって人って案外多いんじゃないかとも思う。灰色の国からやってきたドロシーちゃんはどう思うだろう?