2013/04/25

夢の中まで feat.ERA/tofubeats


「結局は同じ場所」が教えてくれること


 今は遠くへ行ってしまったかつての恋人。もはや次に会う保証さえないのに、その幸福を祈らずにはいられない。誰にでもそんな気分になる夜がある。本作の主人公もまたそうした夜を過ごす一人だ。


 イントロから止むことのないシンセのリフが表現するのは、波のように繰り返し押し寄せる胸の疼きだ。その微かな痛みに耐えながらも、その感覚を何と呼ぶか逡巡して、男は呟く。

 ラブソングって一体なんだろう?

 コーラスがそうした心情の吐露であるとしたら、ERAのラップがフィーチャーされたヴァースは、主人公が彼女と過ごした記憶のフラッシュバックと言える。1つめのヴァースで、もはや恋人ではない彼女が遠くへ去っていく日の光景を、2つめのヴァースで時間はさらに逆行して、二人がまだ恋人として過ごしていたある夜の光景を、それぞれ描き出す。

 (どこかの地点に存在するはずの、恋人関係を解消するという意味での別れの瞬間は、本作では描かれない。)

 だが、そうやって記憶を巡っている間も<疼き>が止むことはない。シンコペイトするビートが記憶のデコボコを心地よくなぞっても、何か糸口が見つかることはない。ささやかな追憶の末、結局、主人公は現在 ――ふいに目が覚めてしまった深夜2時半のベッドルーム―― へと戻って来る。


 本作は紛れもないラブソングだ。そしてここにあるのは、何も変えず・何も与えない愛だ。ただただそこにあって、時々その存在を主張するように微かに痛む。その痛みゆえに、ほんの束の間だけ人は祈るような気分になる。そうした経験を積み重ねることも、大人になるということの一部だと思う。

 爽やかで甘いサウンド(ムード)の裏側で、ささやかな経験を積み重ね、人は確かに成長していくのだ。と本作は伝えている。






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2013/04/19

誕生日には真白な百合を/福山雅治


男子は父親は超えられるのか?


 (もはやスクリーンやテレビ画面の向こう側にしか存在しないような)頑固で独裁的な父親を超克しようと足掻く息子。長崎出身・44歳のソングライターによる本作は、そんな若くて向こう見ずだった少年が、数十年後に辿り着いた地点を描いた一曲だ。

 福山のエモーショナルな歌唱は(歌詞で多用される疑問形とは裏腹に)現在の主人公が感じている、父親を超克したことへの確信を表現したものだ。

 とは言え、本作はあくまで家族へ向けた歌であって、仇敵に向けた勝利宣言ではない。サウンドを一言で表せば「ストリングスをフィーチャーしたバラード」だが、そうした言葉から連想される大仰さを前面に押し出した作品ではない。家族を想う男のどこかメランコリックな心持ちにも対応した、濃密でパーソナルなサウンドを持った作品だ。

 南米アンデス地方の楽器 サンポーニャの、エスニックでちょっと間の抜けたサウンドは、その他の楽器群と歌唱の相乗から生じる過剰な親密さに、爽やかな抜け感を加えている。

 そもそも本作に限らず、福山雅治をソングライターという観点から見たとき最も興味深い点の一つは「歌詞に垣間見える福山の家族観(とりわけ父と子の関係に対する視点)」にある、と個人的には思っている。本作でも、主人公の父親への想いの複雑さとは対照的に、母親への感謝はもっとあっさりとした形で表わされている。要するに、彼は「昭和の男」的な問題意識を火種に抱えた作家なのだ。(ちなみに編曲者の井上鑑(あきら)の関わりまで含めた、福山のソングライティングも興味深くはあるのだが、こちらはまた別の機会に書きたい。)

 そんな昭和の男が、過去に向き合ために提示する方法が「誕生日に百合を送る」ことであるというのは、いかにも成功者の色男らしい。余談になるが、最近、花を贈る文化がどういうルーツを持っているかが気になってネットで検索していたら、「花を贈る文化を日本に根付かせよう」という花屋産業のスローガンがこれでもかと画面に並んでちょっと辟易してしまった。その誠意が踏み荒らされないためにも、本作は花屋産業のプロモーションには利用されない方が良いだろう。

 彼の濃厚な歌が気分じゃないというかた向けに、CDには同曲のインスト・バージョンも収録されており、そちらでも十分にこの濃密な雰囲気を楽しむことができる。お好みに合わせてどうぞ。


(オフィシャル動画は無し。iTunesでも取り扱い無し。閉じてます。)

2013/04/12

Beautiful Dancer/IU

ダンス・ミュージック的な引き算のアレンジが生み出した美しいラブソング


 20歳の韓国人女性ソロシンガー、IU(アイユー)による日本デビュー作品であり、80~90年代にかけてジャネット・ジャクソンを手掛けたプロデューサー・チーム、ジャム&ルイスが手掛けた鳴り物入りの一曲。セールス面はさておき、クオリティの面では両者ともその期待に見事に応えた作品である。

 過去の挫折によって自信を失ったダンサーに、主人公は一緒に踊ろうと呼びかける。「周囲にバカにされても、下手っぴでも、あなたは美しい」「勝ち負けにとらわれない、ささやかな喜びを感じよう」というメッセージによって、この曲は単なる応援歌ではなく、愛の告白をともなったラブソングの領域へと踏み入れる。

 2番が終わった後のブリッジと最後の転調以外、コーラスとヴァースをまたいで、穏やかにループするメロディ(とコード)。ヴォーカル/ストリングス/エレピと音色自体は変えながらも、アタック感の弱い楽器が中心となってテーマとなるメロディを繋ぐことで、楽曲に穏やかなピーク感を生み出している。

 ビートも非常にシンプルで、ダンスを強調した歌詞からすると、最初は控え目な印象さえ受ける。裏拍をあえて使わず、表拍のみを使った4つ打ちを基本に、キックをハーフにしたり、偶数拍目のスネアやパーカッションの抜き差しすることで、効果的に変化をつけて行く。曲が終わりに近づくにつれドラムも手数を増やし、複線化するヴォーカルとともに、効果的に楽曲を盛り上げつつ、楽曲のムードを崩すことのないようにも配慮されている。

 ブリーピーでバキバキとしたEDMのスタイルがメインストリームのダンス・ポップの主流となっている中で、本作はいささか地味に映るかも知れない。だがこの音楽の持つ構造的ミニマルさ、引き算の発想から生まれたアレンジには、はっきりとダンス・ミュージック的な視点を感じることができるし、そのことがこの曲に独自のキャラクターをもたらしている。

 派手な要素はないので大きな話題になることはないだろうが、洗練された音楽だし、その洗練が単に音楽性のレベルに留まっているのではなく、楽曲のメッセージと美しく補完し合っていることには、唸らされずにはいられない。
(ビデオを直接貼れなかったので取り急ぎyoutubeのリンクのみ。MVもかわいらしくて好きです。)


2013/04/04

Yin Yang/桑田佳佑


「マジメな輩だけがマジとは限らない」


 タイトルは恥ずかしさを表す感嘆句「イヤン」と、森羅万象を意味する中国古来の思想である「陰陽」を掛けたもの。だが曲を聴くと「森羅万象」を意味する陰陽よりも、陰陽と同じような字面を持つ「光陰」の方がしっくりくるような気がした。つまりこれは時間=人生と、その別れについての歌なのだ。


 曲中で主人公の男が語る人生。一言でいえばそれは「女に振り回され、酒に溺れる」という、旧きステレオタイプである。冒頭からゾンビーズの"Time Of The Season"を思わせるベースラインとオルガンの響きが、主人公の男が持つセクシーでダンディな人生観を表現する。Aメロ→Bメロサビのような、いわゆるJ-POPの定型から遠く離れ、Aの繰り返しの中にブリッジ的なBを登場させて全体を引き締める、という構成も手慣れたものだ。

 だがそのリズム&ブルースは、決してクールにキマっているというわけではない。(歌詞カードにこそ記されてないが)間奏やアウトロで聴かれる『オッパイ/イヤン』『サワッチャ/イヤン』というしょーもない間の手。あるいは、間奏でのキーボードが奏でる『ムーンライト伝説』から引用したメロディ。熟練がもたらす洗練さを拒否するかのように、楽曲の節々に彼ら流のギャグが散りばめられているのだ。


 去り逝く人の人生について語る時、それが赤の他人に近ければ近いほど、それを茶化すことは憚られる。だから本作は歌い手自身、あるいは歌い手と重なり合うような身近な存在に向けられたものなのだろう。

 もちろん茶化しているからといって、バカにすること(だけ)が目的だとは限らない。人生について考える時、恐らくは健気さへの期待から、人はついつい真面目になり過ぎてしまう。もちろん、それはそれで結構なことなのだけど、そればっかりでは人生の浅はかさやテキトーさ、不埒さは掬い切れない。浅はかさがあるからこそ、人の一生が一層に切なく、愛おしく感じられる。しょーもないギャグによって、歌声が一層にソウルフルに響くこともあるんじゃない?と投げかける、確信犯的な仕事。