2016/03/18

PERFECT HUMAN / RADIO FISH





泳ぐか、口を噤むか


お茶の間に初めてEDMを轟かせた「R.Y.U.S.E.I.」が一瞬にして更新されようとしている。ラジオ・フィッシュ旋風はMステに出演して以降、まさに水を得た魚のようにブームを巻き起こしている。泳がされているのはオリラジか、視聴者か。あるいはメディアなのか。

「恋チュン」にしろ「R.Y.U.S.E.I.」にしろ、視聴者による”踊ってみた”動画の投稿がブームの一員であることの証明書として働き、結果的には踊りやすさが無料のプロモーション・ツールとして機能すると”作り手に発見”されて以降、真似し易いキャッチーな振り付け・メロディー・楽曲構造がポップスの世界では正義となった。そして、そうした世界で最もダサい態度が、あーだこーだと考え事をしながら腕を組んでいるタイプの(筆者のような)人間だというのも理解はしている。なぜそこまでお前は踊りたいのかと喰ってかかれば、藤森に「そこにビートがあるからさ。」と爽やかに返されそうだ。

このお題、自分で提案しておきながら後になって書く事があまり無いことに気付き、どうにもこうにも筆が進まなく、提案した手前自らお題を取り下げる訳にもゆかず、かと言って「特にありません。」の8文字で終わらせるのも失礼なので、というか「そういう曲にこそ内心は書き殴りたい事が詰まっているのでは」的な捻くれた論を自分に問い掛けてみたりしながら、正直かなり困っていた。と言うのも筆者の頭を抱えさせたのは、この芸が、割とお笑い芸人からは白い目で見られているのに対し、世間一般やメディアからは意外にも高評価を受けているという各業界の反応の違い、そして、特に音楽関係の筋からは好意的に受け取られている点である。まあ、単純に否定派は口を噤んでいるだけとも言えるが。少なくとも、筆者の目を通した限りではそういう印象があったのだ。元来、リズムネタや歌ネタはそういう傾向があるが、今回は特にそれが強い気がするのは、少し気掛かりであった。

荻原 梓


"音ネタ"という時代の徒花


EDM時代の"音ネタ"としてよく出来ている。単にEDMサウンドのパロディであるだけでなく、「武勇伝」のセルフ・パロディでもある。しかも、テレビ・メディアでの華麗な復活を遂げた自分たちのポジションを反映してか、以前よりもさらに過剰な自己主張の歌詞となっている。惜しむらくは、若い世代には「武勇伝」そのものが身に覚えが無いかも知れず、単に2016年の一曲として聴かれているかも知れない点か。

いや、実のところ、この曲には単にお笑い芸人としてだけでなく、シリアスな音楽ユニットとして見られたい、という作り手側の欲望がそこかしこに見て取れる。RADIO FISHというユニット名からして(たとえそれが、単に所属するメンバーの元の名前から取ったというエクスキューズありきのものだとしても)音楽ユニットっぽい。JUVENILEの用意したサウンドも本格的だ。「でも、普通にかっこいいよね?」と言われたいという狙いが、可愛げを感じるくらい透けて見えている。

だが、"単に2016年の一曲"として聴くなら、藤森のラップ・パートをはじめ、いただけない部分も多い。確かに、1番でのシンプルな押韻と、ゴリゴリとしたリフの徹底は一定のドライブ感がある。だが、2番になると譜割は苦しいし、コール・アンド・レスポンスに至っては明らかに浅薄で、作り手の集中力が切れていると思える。ゆえに飽きられるのも早そうだが、きっちり時代の徒花として役割を果たした度胸は評価したい。




2016/03/02

明日への手紙/手嶌葵





人の心をへし折る歌


全体的に順次下降してゆくコード進行は遠い夢に進めども届かないもどかしさを、ピアノの打鍵音すら聴こえる静けさからは孤独に手紙を書き綴るシチュエーションを、(主に序盤で)寄り添うように合流するギターとストリングスは主人公が夢へと歩むうえでも大切な人はそこに確かに居るともの語る。それらは、ほとんど意識することがないほど耳にすっと浸透する。

詞は、未来の自分自身へ向けて「夢を見ることを諦めないで」、「夢がもし叶わなくても故郷はあなたを迎えてくれる」という二つのメッセージを込めた手紙を書く、というシンプルなもの。しかしこの二つのメッセージのうち、手嶌葵の歌声によるものなのか、プロデュースした蔦屋好位置の意向なのか、結果的に「故郷はいつでもあなたを待っている」側面だけが強調されており、人の背中を押す応援歌というよりはむしろ、人の心をへし折る歌としてこの曲は機能しているようである。

少し気になったのは、主人公のことを《いつだって変わらずに》待っているふるさとの風景が、あまりにも典型的な日本人の原風景すぎないかという点である。この曲に登場する、主人公を手招く「諦め」の土地としての故郷、《揺れる麦の穂 あの夕映え》。この謂わゆる「長閑な農村地帯の田園風景」、あるいは「夕暮れ時の麦畑」といった多くの日本人が共通して持つと言われる原風景──そんなものはそもそも存在しないとすら思える──は、昨今の多様化する家族形態や生活環境、人種、ライフスタイルなどを考慮すると少々前時代的にうつる。ジブリ・アニメ的と言えばよいだろうか。というのも、少なくともその点においては現在のインディーズで活動している日本語ロック・バンドやここ数年でデビューした若いアーティストたちの方が、自分たちのある種の世代性を自覚しておりうまく表現できている。何が自分にとっての「帰る場所」なのか。そこを、もう少し工夫してほしかった。

荻原 梓

手嶌葵のFight for life感


聴いていてそのブレス音が気になってしょうがなかった。ピアノとストリングスが奏でるイントロを経て、「元気でいますか〈ハ~〉大事な人は出来ましたか〈ハ~〉」と、目一杯息を使ったAメロが続く。総合的には囁くような歌い方とも言えるが、いわゆるウィスパー系とは違う。耳障りではないが、つい耳が行ってしまう、異質な歌い方だと感じた。過去のインタビューを読むと、そうした歌い方には本人も自覚的なようで、ルーツには映画音楽などを通して幼い頃から親しんだというジャズ歌手の影響がありそうだ。

ブレス音は“楽音/雑音”というざっくりとした区分では後者に入る。つまり(理念的な音楽の世界では)ノイズだ。特に現代ならマイキングやエディット次第でいくらでも切ることが出来る。だから、手嶌葵はあえてそれをせず、むしろ意識的に強調している。とひとまず言うことが出来るだろう。(逆に、ブレスが全く不在という曲は、それはそれである種のメッセージを伝えていると言える。)

そこから読み取れる意味は多様だが、ここでは歌の醸す切実さに注目したい。例えば椎名林檎のように、ブレス音を上手くコントロールすることで、ある種のセックス・アピールを打ち出す手法は、歌モノの世界では常套だ。手嶌葵のこの曲はそれと逆で、吐く息の尋常でない量が、“どうにもコントロール出来ない切実さ”のメタ・メッセージとして聴き手に伝わる。癒し系、という巷間の手嶌のイメージとは異なるFight for life感。この曲はそれがエッセンスとしてムードを支えている程度だが、そこがより強く打ち出された時、手嶌のキャリアのギアが一段変わりそうな予感がする。