2016/02/19

両成敗でいいじゃない / ゲスの極み乙女。





不干渉という慈愛を歌ったバンドは、時代に対峙していたのか


ここでいう「両成敗」とは慈愛のことだ。川谷絵音の書いた歌詞は明らかに最近のネット・リンチを想定している。そこにはマツコ・デラックスが「恐ろしい」と表現したとされる、ネットとテレビの組み合わせによる新時代的なバイラル効果も含まれている。

「両成敗」を決めることができるのは裁判官=第三者。そして、ここでいう第三者とは、個人のプライバシーに関わる事件を取り上げたページを、時に嬉々として、時に後ろめたさを感じながら、普段は特に何も感じずに覗き、なんならコメントまで考えてしまう人々のこと。そこでいたずらに当事者を“罰する”行為を、バンドは強くは断罪しない。その代わりに「両成敗」として不干渉を取り決めないか? と、特にその裁判官に提案している。歌詞の主格は、俯瞰者の位置に固定されてはおらず、容易に当事者自身、あるいは裁判官の側にも移る。その移り変わりの速さと流動性は、単に主題が曖昧であるというレベルを超えて、寄る辺ないフィーリングを聴き手に与える。

そのテーマから考えれば、優しい曲とも捉えられるし、実際にそうした曲として届けたいという意図を、「両成敗でいいじゃない」のメロディ・ラインから感じることができる。だが、一方で、その歌い回しや、ささくれ立ったサウンドからは、勝ち気で好戦的な姿勢も読み取れる。思えば、彼らのブレイク点となった「私以外私じゃないの」は、それがマイナンバーのキャンペーンに起用されたことにも端的に表れていたように、日々拡大する日本の新しい個人主義を象徴するような一曲だったし、時代を味方にしたからこそ支持された。そんなバンドが、今度は、少々甘味の強い理想主義的な主題を構えて歌ったのだとすれば、自分が時代の気分に対峙しているのかも知れない、という一種の気負いがバンドの側にあったのではないか、という気もしてくる。

現代の慈愛として、干渉の抑制について歌ったバンドが、その後、あのような事態に追われた(今も追われている)ということは周知の通り。皮肉を通り越して、2016年、ポップス怪談話の様相をも呈している。


過剰なまでに“現代的”(なのに……)


A:負けを認めたくないなら…
A’:信念の上澄みだけを…
B:何かにつけて…
C(1サビ):両成敗が止まらない…
D:大差ないんだって…
B:何かにつけて…
C(2サビ):両成敗が止まらない…
C’(2サビ):両成敗は終わらない…
間奏
C”(落ちサビ):両成敗が止まらない…
C(3サビ):両成敗が止まらない…
E(大サビ):難しく考えるより…

楽曲構造は非常に「現代的」である。スネアロールが止まると歪んだギターのリフ、それに負けじとテクニカルに動くベースが登場するイントロ。ベースはこのバンドの名刺とも言える跳ねるスラップを披露する。好戦的な男性陣の演奏に対し、なだめるようなピアノの旋律とコーラスは場の温度をぐっと引き下げる。サビを終えた後に2番へ突入すると、Aメロを通過せず代わりにDメロが登場する(現代的な構造である)。このDでは、この曲でもっとも印象的なフレーズのひとつとなる《データ処理した言葉は/空気に触れるべきじゃない》が緊張感を込めて歌われる。抽象化され一般化された「勝ち/負け」のある争いをテーマとしつつも、ここでほんのりと焦点が絞られる(おそらくは現代的なテーマである)。間髪入れず2回目のB、そして2サビへ。2サビ以降の主旋律は全てサビなので、曲の半分以上がサビに居続けている感覚を与える(これも近年のJ-POPの傾向である)。また、2サビと3サビの間に挟まれる間奏は、3分40秒ほどの短い曲間のうち40秒近くを占めるため体感的にはかなり長い。ただし、この長尺の間奏部分の前後で曲の世界観に大きな変化があるわけではない。3サビを終えた後、この曲の核心部となるEメロをみせて曲は終わる(”E”まで登場するのもまた現代的と言える)。

ざっと、上記のような構成をとるゲス極の新アルバムのリードトラック「両成敗でいいじゃない」。テンションコードをふんだんに使用した何となく儚く切ないサウンドが川谷の中性的なヴォーカルを支え、曲の世界観を膨らませている。《両成敗が止まらない もう止まらない 呆れちゃうよな》という一見詩的とは思えない言い回しも、テンションコードの多用により少々強引気味にポップスとして成立させている。また”両成敗”という言葉について川谷は、「みんな知っているが普段使うことは滅多にない上に、汎用性があるにも関わらずタイトルなどに使われてこなかったことに着目した(※)」という。こういったコピーライター的センスは評価せざるを得ない。実際、現在の若手バンドの中では人目を惹くタイトルを付ける能力が頭一つ抜けているのは事実であろう。そして、ラストにこの曲の結論として放たれる至言、

難しく考えるより 好きになった方がいいじゃない
好きにならなくても 両成敗でいいじゃない

この結論は、例えばセカオワの《だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ》にも通じる平衡感覚であり、繰り返しになるが「現代的」である。

このように、過度に現代化された楽曲は往々にして広い世代に聴かれるものではない。一般的に、多くの人々に親しまれる楽曲というのは前回の「海の声」のようなスタンダードナンバー的作風の音楽である。そのため、ゲス極のように速いスピードに早口の歌詞やEメロまであるような展開の多い音楽スタイルは、聴かれるターゲットを自ら狭めていると言える。要するに、新し過ぎて若い人にしか聴かれない。しかし、皮肉にも今年の1月にもっとも多くの人々に聴かれたロックミュージックとなってしまったのは、J-POPにとって幸なのか不幸なのか・・・。

※スペースシャワーにて放送された『両成敗 スペシャル』での発言をレビュー用に筆者が改変。

荻原 梓


2016/02/09

海の声 / 浦島太郎(桐谷健太)





スマホ世代の苦悩、2010年代的な「会いたさ」


三味線、ピアノ、ストリングスの3楽器から始まり、途中からバンドが合流する非常にシンプルな楽曲構造には音楽的になんら真新しさはない。この曲から敢えて2016年的な切り口を見出すとすれば、CD発売はせずデータ配信のみであり、auユーザー限定で先行配信された(現在はiTunesで購入可能)という点だろうか。加えて、電通社員によって作詞された歌詞に電話会社による「通信」を促すメッセージがしっかりと込められている点も見逃せない。

「海の声が 知りたくて 君の声を 探してる」。だだっ広い海を前に砂浜に座った桐谷健太が吠えるように弾き語る。ああなんだかナチュラル志向でよいですね~。海・山・川!自然回帰、大地讃頌!! あ、でもちょっと寂しいかも。人肌が、恋しい…。そこでキラーフレーズの登場。「会えない そう思うほどに 会いたい が大きくなってゆく」。そんな時でもすぐに会話することができます。そう、iPhoneならね。とでも言いたげな。

さて。「会いたい/声を聞きたい」。これは現代を生きる私たちにとっては非常に重要なテーマである。そもそも私たちは本当に「声を聞きたい」のだろうか。いつから人はこんなにも「会いたく」なったのか。西野カナ以降? それこそ私たちは電話会社のサービスを利用して「会いたい/声を聞きたい」という欲求を満足させているわけだが、私たちは半ば「声を聞けて」しまうがために無駄に「会いたさ」を感じてしまっているのではないか。最早、それは強制的に感じさせられていると言えるくらいに。そう考えると、スマホ世代の苦悩--2010年代的な「会いたさ」--をこの曲は増幅していると言えよう。

ところでこの曲、iTunesのトップチャートに姿を現したところで初めて私は存在を知り、テレビ・コマーシャルとは斯くも遠い存在になったものだなあと改めて実感した。ネット社会の現在であっても未だにテレビ・コマーシャルは音楽を流行らせるパワーがあるのかと、20年くらい前の感覚に戻った気分になった。オレンジレンジ、元ちとせ、SPEED、安室奈美恵など、ひと頃の「沖縄ブーム」も下火になり、今年に入って元THE BOOMの宮沢和史が歌手活動の無期限休止を発表するなど、最近はあまり元気な話題を聞かなくなった沖縄だが、「海の声」に乗ってやってくる沖縄調のメロディーに、ふいにあの頃の沖縄勢の盛り上がりを懐かしんでいる自分がいた。そういえば「あなたに逢いたくて」と連呼していたのはモンパチだったなあ…。

荻原 梓

“古い”ヒット・ソング


2015年にブレイクしたauの「三太郎」CMシリーズから、スピンオフ的に生まれた楽曲。元々は“声がよく聞こえる”というキャンペーンに使われたために、やたらと<声>と連呼する歌詞になっている。桐谷健太という恵まれた声質を持つシンガーと、BEGIN(作曲)、山下宏明(編曲)という熟練の作家陣の組わせによって、この曲は、単に使い捨てのノベリティー・ソングという域を超えて、昨年7月のリリースから現在に至る大きなヒットとなっている。

作詞は同シリーズのプランナーもである篠原誠。広告ディレクターがCMの楽曲まで担当すること自体は、熊木杏里「新しい私になって」(作詞:中島信也)や、「グリーンダカラちゃん」(作詞曲:赤松隆一郎)など、とりわけ珍しいことではない。ここでの篠原の歌詞は、CMで桐谷が演じる浦ちゃんこと浦島太郎のキャラクターに合わせて(だよね?)、かなり拙く幼い印象を与える。本来は俳優である桐谷を、歌だけでなく三線(さんしん)の演奏でも参加させたことも同様の狙いがあったのではないか。「海の声」は、一種のアマチュアイズムが楽曲の肝に据えられ、それが前述の作家陣の手練にくるまれることで、ポップス的な強度を帯びている曲だ。

BEGINと山下の仕事は、楽曲の構成を1つとってもJ-POP職人的な気配りが効いている。1番で1度だけ出てくるAメロや、大サビでの1度上への転調。それらがさり気なく、しっかりと良い塩梅に曲の情報量をコントロールしている。ただ、ここまで書いてきたこと全て、J-POPの世界に既にあったもので、そういう意味では「海の声」は“古い”ヒット・ソングだと言える。歌詞の内容としても変わらないことを歌う、変わらないスタイルの曲を求めるリスナー。時勢を思うと、その欲望を全面的に否定することはは難しい--つまり、気持ちは分かる--が、それに作り手が甘んじれば、止めどないスパイラルに入ってしまうだろう。どちらが先に“裏切る”のか? その誠意こそ、いま必要な気がする。


J-POP REVIEW 再開

J-POP REVIEWを再開します。

更新が止まっていたことにも、今回再開することにも大きな理由はありません。ただ、生活環境の変化に伴って、まとまって何かを「レビュー」する機会が個人的に減っていることは、再開する理由の1つかも知れません。このブログを初めて投稿した2013年とは、音楽(ネット)メディアの状況が根本的に変わっている実感もありますが、まずは大きくは何も変えず、コツコツと更新をして行きたいです。

再開にあたって荻原 梓さんに寄稿をお願いしました。新しい「海の声」のレビューは、荻原さんにこのブログに書いて貰った初めての記事です。

前回参加してもらっていた小林 翔さんにもタイミングをみて合流して貰う予定です。その他、参加したいという奇特な方は随時募集しています。Twitterなどで連絡を下さい。

それでは引き続きどうぞお楽しみ下さい。