2016/06/13

藍色好きさ / indigo la End





エモる?エモらない?


勢いのよいドラムから導入するが、その他の楽器陣がそれに真正面に答えたりはせず、複雑なコードによるテンション感から不協和が漂うイントロ。その「ちぐはぐ」をまずは提示している。全体的に脱力感があり、激情することがない前半部。そこにはヴォーカル川谷の男としての確固たるスタンスすら読み取れる。「何があっても僕は動じないよ」そんなふうなニュアンスが感じ取れる。「未練」というよりは、ほとんど諦めているが「ワンチャン会えたら会いたいかな」くらいのバランスか。失恋後の男とはそういうポーズをとりたがるものだ。

両成敗でいいじゃない」もそうだったが、川谷のメロディーは、AメロやBメロの段階ではそれほど印象的なものを作らない。これは恐らく意識的に。なので、サビ前までの段階ではわりとフレキシブルに速さや音程が変化する覚えにくい曲になっている。喋るように歌うことすらも可能だ。その代わり、サビをここぞとばかりにキャッチーに作り「ここはサビです!」と主張させる。即興的で非固定的(ライヴでは変わる?)なA・Bメロと、キャッチーなサビとの対照性が川谷の作るポップスの基本構造である。作曲家というよりトリックスターのようなこの技法、もしこれだけで終われば作曲家としては二流であろう。しかしこの基本構造に加えて、エモーショナルに変化する後半部の展開にバンドマン、川谷絵音の真骨頂がある。

多重コーラスによる音の壁を掻き分けるようにして「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」と四つ打ちのキックがクレッシェンドしてゆくブリッジを境に、前半部では平静を装っていた感情を徐々に強めてゆく。泥臭くなく、クールに。「君が好きだ!」と闇雲に叫んだりはしない、効率的に体力消耗する草食男子としての知恵か。こういうのをスマート・エモと呼びたい。思うに、彼は今のバンドマンの中では最も「感情のさじ加減に細心の注意を払っている」タイプの一人である。これより少しでも感情的になってしまえばダサいだろうし、かと言って、今のインディーの冷め切ってる感じもつまらない、そんな塩梅と言えばよいだろうか。「ブルー・エンカウントはダサい、ミツメは格好はいいけどつまらない」みたいな。

荻原 梓


オルタナティブ新世代のための職人的AOR


アダルト・オリエンテッド・オルタナティブ・ロック。独自に表現されたブラック・ミュージックからの影響や、ポップ・ソングとしての山っ気が盛り込まれ、結果的に「なんだかよく分からないポップス」として差し出されがちなゲスの極み乙女。の音楽に比べると、この「藍色好きさ」は分りやすい。オルタナティブ新世代のためのAOR。何より職人的なサウンド・メイキングの気配りに唸らされる。 

スラップを使ったゴリっとしたベース、激しく歪んだギター、あるいはエフェクティブなギター使いや、ダブのリズムの導入。90年代以降のロック音楽が培ってきたこれらの要素を、むせかえるほどメランコリックな歌モノの中でいかに昇華するか。そのバランス感覚が、独特のヴォーカルと同じくらい川谷の作家性を支えている。 

例えばサビの部分でのヴォーカルの重ね方。1回目、2回目では厚く重ねメロディを印象付ける。と同時に、3回目ではあえて(歌を)重ねないことで注意を惹く構成となっている。あと、地味なようだが、サビでアコースティック・ギターのストロークを演奏に重ねている点も、ともすればストレートなメロディの進行に、印象が逆に弱まりかねないパートを、リズム面から補強しており、納得感がある。現代のポップス・メイカーとしての覚悟、とはさすがに言い過ぎだろうが、このサウンド・クオリティへの配慮は、数多の若手ロック作家の中で、川谷が特に注目を集めた理由だろう、と素直に思える一曲だ。 



2016/05/11

サイレントマジョリティー / 欅坂46





サイマジョ現象にみる女性観


サイレントマジョリティーという言葉は本来、政治における声なき声・静かな多数派といった意味に使われるもので、個人の自我の問題に触れるべきものではない。つまりこの曲で歌われるような『何のために生まれたのか?』といった哲学的な問いは、若者のアイデンティティーの喪失の問題であって、個々人の政治的主張の有無とは関係がないはずである。だから、本来の意味ならば『政治について口を閉じているのは確かだけど、それをひとまとめに没個性だとか空気の読み過ぎだとか言わないでほしい』と拒否反応が返ってくるのが普通である。しかし秋元康は、言葉の意味を巧みにすり変えることでそれを回避した。彼の考える「サイレントマジョリティー」とは、主体的に選択して(危機管理などを理由に)「サイレント」を決め込んでいる人々ではなく、主体性のなさ、積極性のなさ、自由意志の欠如によって声を上げない人間の群れであると仮定した。生きる目的がわからない、自分とは何かがわからない。だから空気にも流されるし、口も塞いでいる。そんな仮想の「サイレントマジョリティー」を秋元康は欅坂46に演じさせたのである。ミュージックビデオの再生回数は記事執筆時点で1000万回を超え、デビューシングルとしては異例の爆発的ヒットとなった。いったいなぜここまでの話題を呼んだのか。この曲の基本となる発想を彼が楽曲として最初に登場させたのは2012年、乃木坂46のシングル「制服のマネキン」である。

《その意思はどこにある? 制服のマネキンよ》

「制服のマネキン」の場合、教師と思われる男性が教え子に対し強引にアプローチをする様子が描かれている。これが転じて、物言わぬアイドルらに対しプロデューサーが意思の覚醒を説き、それをアイドルが(ステージでパフォーマンスすることで)そのまま観衆にスルーパスする構造になっていた。だから「マネキン」とは操り人形であるアイドルのことであって、同時にそれに群がるファンのことでもあった。もっとも、彼がプロデュースするアイドルグループのファンの多くが「自分とはいったい何者なのか?」という精神的課題を「自主的に選んだメンバーを自主的に推している自主的な自分」を発見することで克服していることを、彼が一番よく理解している。「制服のマネキン」が優れているのはこうした若者の発育上の課題を、教師と生徒の関係を描くことで、プロデューサーとアイドルの関係にも、アイドルとファンとの関係にも応用できている点だ。「サイレントマジョリティー」はこの構造をベースに若干の改良が加えられている。

《Yesでいいのか? サイレントマジョリティー》

ここでは前述のような明確な教師役は存在しない。代わりに、歌詞そのものがアイドルらを奮起させる強烈な檄文として機能している。『自由を取り戻せ!さもなくば”ひとまとめ”にされるぞ!』ざっとこういった趣旨の発破をかける詞が並ぶ。すると群れの中からたった一人だけ、拳を大きく突き上げる者が現れたのだ。センターポジションを務める14歳の平手友梨奈である。彼女はここで、人間が主体性を獲得した瞬間の姿を演じてみせる。学校から屋外へと変わった舞台や軍服をモチーフにしたような衣装も、彼女の演技に、より一層の緊張感を与えている。何よりも他のメンバーの表情やメークの”没個性”感に、平手を引き立てようという意図が感じられる。楽曲においては、特にAメロの旋律は女性が歌うには低過ぎるが、却ってそれがローなテンションを的確に演出しているようだ。ポップスとしてはサビでの詞の乗り具合が控えめにも良いとは言えないのは、メッセージへのこだわりが強過ぎるためだろう(カラオケでは盛り上がらないだろう)。そのため詞の主張を、音から映像からパフォーマンスに至るまで、全てが一丸となってバックアップしようという作りになっている。その中で、平手はリーダーシップをとり他のメンバーやファンらを先導してゆく、というシナリオが描かれている。つまり「サイレントマジョリティー」は、自由を促す文章がひとりの少女を変え、そして彼女自身も周りを変えてゆく、という構造となっている。

かくして女性の地位向上や社会進出といった世界的な流れとも呼応するような楽曲が、ある種それとは真逆の価値観を持つアイドル文化の最先端で生まれた。現在、彼女の握手会の列には若い女性が長蛇の列を作っているという。アイドルは時代を映す鏡なのだとすれば、いまの日本が求めているのは、自分の意見を持ち臆さず主体的に発信してゆく女性の姿なのかもしれない。

荻原 梓


キメラが殖え続けている!


ポップ・ソングのキメラ性。マイナー調のコードやメロディー、あるいはイントロから曲を盛り上げるクラップ音や、短いピアノのリフ。それらを聴くと、この曲は電化されたフラメンコの一種だと思える。ただ、基調となるビートはフラットな4つ打ちで、電子ドラムのサウンドやオカズの入れ方はロック的。それらの上で歌われるヴォーカルは、ゆったりと優雅にシンコペイトするもので、曲調の激しさとはいささか乖離したリズムを持つ。つまり、この曲の激しくて陰気なサウンドや曲調とは異なる要素が、その歌によって注入されている。このバランス感こそ、この曲の肝だと言えるだろう。 

言葉に反映されている時代性を除去、誰の耳にも明らかな扇動的で説教めいた歌詞と、ゆったりとした歌だけを取り出せば、オールド・スタイルのフォーク・ソングにも聞こえるだろう。逆に言えば、そう聴こえさせないために、他のサウンドが導入されているのかも知れない。キメラは禍々しいが、空を飛び、大地を駆け、肉を裂きたいという人間の欲望が不足なく体現されたシンボルでもある。この曲もまた、伝え手と受け手の期待が不足なく体現されているという意味で、生まれるべくして生まれた一曲だと言える。

現代のポップスは不気味なパスティーシュの塊、という旨のことを述べていたOPNのダニエル・ロパティンはこの曲を、J-POPをどう聴くだろう。彼は、この曲とは全く異なる意味で、歌とトラックの関係性に耳が惹かれるアノーニの『HOPELESSNESS』をプロデュースした。それに比べると、やはり「サイマジョ」は無自覚過ぎる。無自覚には無自覚の良さがあるが、キメラを無自覚に生み出せば、それは一種のマッド・サイエントだということも忘れ難い。



2016/04/18

Cry & Fight / 三浦大知





孤独と葛藤の曲


ソロデビューから去年で10年が経ち、キャリアを振り返りつつ今後を見据えたシングルである。SeihoとUTAによるサウンドは、まるで日本人の音楽とは思えない米国スタンダードで、安室奈美恵の去年のリリースなんかに非常に近いものを感じたが、こういう音をオーバーグラウンドで男一人がアイコン的に背負う例が日本にはまだ存在しないため、J-POPにとっては異端と言えるほど新鮮な聴こえがある。少し前のチルウェイヴのような色彩の配信シングルのアートワークも、その抽象画的な質感のピンクに込められた意味合いはまるで違う。モラトリアム男子が夢想するユートピア表現としてのそれではなく、まるで武士が精神統一するかのように、ちょっとダンディーな魅力を匂わせた男がシャワーを浴びながら「俺はいったいどうすればいいんだ!」と自分に浸るアレだ。自分自身と向き合うパフォーマーとしての孤独と葛藤を、リバーブの効いた幻想的なシンセがこれでもかというくらいドラマチックに描く。しかしそのシンセも切れ味よくカット、ベースがゴリッと鳴り、乱反射する光線のようなSE、そして魂の叫び・・・。三浦はここで、己が悩み苦しむ姿をそのまま表現物として成立させた。

《正解も不正解もない この世界に今》

届く人に届けばよい時代。ダンスが出来て、歌唱力も抜群、顔面も十分。楽な道はいくらでもあっただろう。しかし彼が選んだ道は、道を悩む姿そのものの提示であった。幼くして歌の世界へ飛び込んだ彼が今、ソロ11年目にして何を思うか。極端に言えば誰も共感できないステージにいる彼が、今はただひたすらに格好いい。

荻原 梓


悠然としたムードの中で歌われるスポーティなEDM歌謡


泣くことと戦うことがほとんど同時に、あるいは同期して、ともすれば同じ意味としてある世界。前者は"挫折"、後者は"挑戦"という単語に置き換えても良い。ダンスと歌を高いレベルで両立する三浦大知は、ある意味、アスリートのようなアーティストだと言える。そんな彼が見ているのは、やはり優れたアスリートの多くが見るように、マゾヒスティックとも言えるほどストイックな水準の世界なのだろう。

イントロから聴こえる鳥の鳴き声や、中盤での水面に跳ねる水滴の音なども、そんな感覚を強調する。高い成果を上げる、そして上げ続ける。そんな大きな目標を前にすれば、一つの挫折や一つの挑戦はプロセスの一部でしかない。そんな悠然とした感覚が、この、どこまでもスポーティなEDM歌謡のムードを支えている。

トラックのプロデュースを手掛けたのはSeihoとUTAという2人。だが、その2人がどこをどのように分担したのか見当するのが無意味に思えるくらい、「Cry & Fight」の音像は一つに統合されている。終盤のブレイクで、例の変調された高音ヴォイスが歌い上げる時、それが泣き声に聞こえるだろうか。それとも歓喜の叫びに聞こえるだろうか。おそらく、その両方が区別されない領域で、三浦大知は踊り歌っているのだろう。



2016/03/18

PERFECT HUMAN / RADIO FISH





泳ぐか、口を噤むか


お茶の間に初めてEDMを轟かせた「R.Y.U.S.E.I.」が一瞬にして更新されようとしている。ラジオ・フィッシュ旋風はMステに出演して以降、まさに水を得た魚のようにブームを巻き起こしている。泳がされているのはオリラジか、視聴者か。あるいはメディアなのか。

「恋チュン」にしろ「R.Y.U.S.E.I.」にしろ、視聴者による”踊ってみた”動画の投稿がブームの一員であることの証明書として働き、結果的には踊りやすさが無料のプロモーション・ツールとして機能すると”作り手に発見”されて以降、真似し易いキャッチーな振り付け・メロディー・楽曲構造がポップスの世界では正義となった。そして、そうした世界で最もダサい態度が、あーだこーだと考え事をしながら腕を組んでいるタイプの(筆者のような)人間だというのも理解はしている。なぜそこまでお前は踊りたいのかと喰ってかかれば、藤森に「そこにビートがあるからさ。」と爽やかに返されそうだ。

このお題、自分で提案しておきながら後になって書く事があまり無いことに気付き、どうにもこうにも筆が進まなく、提案した手前自らお題を取り下げる訳にもゆかず、かと言って「特にありません。」の8文字で終わらせるのも失礼なので、というか「そういう曲にこそ内心は書き殴りたい事が詰まっているのでは」的な捻くれた論を自分に問い掛けてみたりしながら、正直かなり困っていた。と言うのも筆者の頭を抱えさせたのは、この芸が、割とお笑い芸人からは白い目で見られているのに対し、世間一般やメディアからは意外にも高評価を受けているという各業界の反応の違い、そして、特に音楽関係の筋からは好意的に受け取られている点である。まあ、単純に否定派は口を噤んでいるだけとも言えるが。少なくとも、筆者の目を通した限りではそういう印象があったのだ。元来、リズムネタや歌ネタはそういう傾向があるが、今回は特にそれが強い気がするのは、少し気掛かりであった。

荻原 梓


"音ネタ"という時代の徒花


EDM時代の"音ネタ"としてよく出来ている。単にEDMサウンドのパロディであるだけでなく、「武勇伝」のセルフ・パロディでもある。しかも、テレビ・メディアでの華麗な復活を遂げた自分たちのポジションを反映してか、以前よりもさらに過剰な自己主張の歌詞となっている。惜しむらくは、若い世代には「武勇伝」そのものが身に覚えが無いかも知れず、単に2016年の一曲として聴かれているかも知れない点か。

いや、実のところ、この曲には単にお笑い芸人としてだけでなく、シリアスな音楽ユニットとして見られたい、という作り手側の欲望がそこかしこに見て取れる。RADIO FISHというユニット名からして(たとえそれが、単に所属するメンバーの元の名前から取ったというエクスキューズありきのものだとしても)音楽ユニットっぽい。JUVENILEの用意したサウンドも本格的だ。「でも、普通にかっこいいよね?」と言われたいという狙いが、可愛げを感じるくらい透けて見えている。

だが、"単に2016年の一曲"として聴くなら、藤森のラップ・パートをはじめ、いただけない部分も多い。確かに、1番でのシンプルな押韻と、ゴリゴリとしたリフの徹底は一定のドライブ感がある。だが、2番になると譜割は苦しいし、コール・アンド・レスポンスに至っては明らかに浅薄で、作り手の集中力が切れていると思える。ゆえに飽きられるのも早そうだが、きっちり時代の徒花として役割を果たした度胸は評価したい。




2016/03/02

明日への手紙/手嶌葵





人の心をへし折る歌


全体的に順次下降してゆくコード進行は遠い夢に進めども届かないもどかしさを、ピアノの打鍵音すら聴こえる静けさからは孤独に手紙を書き綴るシチュエーションを、(主に序盤で)寄り添うように合流するギターとストリングスは主人公が夢へと歩むうえでも大切な人はそこに確かに居るともの語る。それらは、ほとんど意識することがないほど耳にすっと浸透する。

詞は、未来の自分自身へ向けて「夢を見ることを諦めないで」、「夢がもし叶わなくても故郷はあなたを迎えてくれる」という二つのメッセージを込めた手紙を書く、というシンプルなもの。しかしこの二つのメッセージのうち、手嶌葵の歌声によるものなのか、プロデュースした蔦屋好位置の意向なのか、結果的に「故郷はいつでもあなたを待っている」側面だけが強調されており、人の背中を押す応援歌というよりはむしろ、人の心をへし折る歌としてこの曲は機能しているようである。

少し気になったのは、主人公のことを《いつだって変わらずに》待っているふるさとの風景が、あまりにも典型的な日本人の原風景すぎないかという点である。この曲に登場する、主人公を手招く「諦め」の土地としての故郷、《揺れる麦の穂 あの夕映え》。この謂わゆる「長閑な農村地帯の田園風景」、あるいは「夕暮れ時の麦畑」といった多くの日本人が共通して持つと言われる原風景──そんなものはそもそも存在しないとすら思える──は、昨今の多様化する家族形態や生活環境、人種、ライフスタイルなどを考慮すると少々前時代的にうつる。ジブリ・アニメ的と言えばよいだろうか。というのも、少なくともその点においては現在のインディーズで活動している日本語ロック・バンドやここ数年でデビューした若いアーティストたちの方が、自分たちのある種の世代性を自覚しておりうまく表現できている。何が自分にとっての「帰る場所」なのか。そこを、もう少し工夫してほしかった。

荻原 梓

手嶌葵のFight for life感


聴いていてそのブレス音が気になってしょうがなかった。ピアノとストリングスが奏でるイントロを経て、「元気でいますか〈ハ~〉大事な人は出来ましたか〈ハ~〉」と、目一杯息を使ったAメロが続く。総合的には囁くような歌い方とも言えるが、いわゆるウィスパー系とは違う。耳障りではないが、つい耳が行ってしまう、異質な歌い方だと感じた。過去のインタビューを読むと、そうした歌い方には本人も自覚的なようで、ルーツには映画音楽などを通して幼い頃から親しんだというジャズ歌手の影響がありそうだ。

ブレス音は“楽音/雑音”というざっくりとした区分では後者に入る。つまり(理念的な音楽の世界では)ノイズだ。特に現代ならマイキングやエディット次第でいくらでも切ることが出来る。だから、手嶌葵はあえてそれをせず、むしろ意識的に強調している。とひとまず言うことが出来るだろう。(逆に、ブレスが全く不在という曲は、それはそれである種のメッセージを伝えていると言える。)

そこから読み取れる意味は多様だが、ここでは歌の醸す切実さに注目したい。例えば椎名林檎のように、ブレス音を上手くコントロールすることで、ある種のセックス・アピールを打ち出す手法は、歌モノの世界では常套だ。手嶌葵のこの曲はそれと逆で、吐く息の尋常でない量が、“どうにもコントロール出来ない切実さ”のメタ・メッセージとして聴き手に伝わる。癒し系、という巷間の手嶌のイメージとは異なるFight for life感。この曲はそれがエッセンスとしてムードを支えている程度だが、そこがより強く打ち出された時、手嶌のキャリアのギアが一段変わりそうな予感がする。