2016/06/13

藍色好きさ / indigo la End





エモる?エモらない?


勢いのよいドラムから導入するが、その他の楽器陣がそれに真正面に答えたりはせず、複雑なコードによるテンション感から不協和が漂うイントロ。その「ちぐはぐ」をまずは提示している。全体的に脱力感があり、激情することがない前半部。そこにはヴォーカル川谷の男としての確固たるスタンスすら読み取れる。「何があっても僕は動じないよ」そんなふうなニュアンスが感じ取れる。「未練」というよりは、ほとんど諦めているが「ワンチャン会えたら会いたいかな」くらいのバランスか。失恋後の男とはそういうポーズをとりたがるものだ。

「両成敗でいいじゃない」もそうだったが、川谷のメロディーは、AメロやBメロの段階ではそれほど印象的なものを作らない。これは恐らく意識的に。なので、サビ前までの段階ではわりとフレキシブルに速さや音程が変化する覚えにくい曲になっている。喋るように歌うことすらも可能だ。その代わり、サビをここぞとばかりにキャッチーに作り「ここはサビです!」と主張させる。即興的で非固定的(ライヴでは変わる?)なA・Bメロと、キャッチーなサビとの対照性が川谷の作るポップスの基本構造である。作曲家というよりトリックスターのようなこの技法、もしこれだけで終われば作曲家としては二流であろう。しかしこの基本構造に加えて、エモーショナルに変化する後半部の展開にバンドマン、川谷絵音の真骨頂がある。

多重コーラスによる音の壁を掻き分けるようにして「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」と四つ打ちのキックがクレッシェンドしてゆくブリッジを境に、前半部では平静を装っていた感情を徐々に強めてゆく。泥臭くなく、クールに。「君が好きだ!」と闇雲に叫んだりはしない、効率的に体力消耗する草食男子としての知恵か。こういうのをスマート・エモと呼びたい。思うに、彼は今のバンドマンの中では最も「感情のさじ加減に細心の注意を払っている」タイプの一人である。これより少しでも感情的になってしまえばダサいだろうし、かと言って、今のインディーの冷め切ってる感じもつまらない、そんな塩梅と言えばよいだろうか。「ブルー・エンカウントはダサい、ミツメは格好はいいけどつまらない」みたいな。

(荻原 梓)


オルタナティブ新世代のための職人的AOR


アダルト・オリエンテッド・オルタナティブ・ロック。独自に表現されたブラック・ミュージックからの影響や、ポップ・ソングとしての山っ気が盛り込まれ、結果的に「なんだかよく分からないポップス」として差し出されがちなゲスの極み乙女。の音楽に比べると、この「藍色好きさ」は分りやすい。オルタナティブ新世代のためのAOR。何より職人的なサウンド・メイキングの気配りに唸らされる。 

スラップを使ったゴリっとしたベース、激しく歪んだギター、あるいはエフェクティブなギター使いや、ダブのリズムの導入。90年代以降のロック音楽が培ってきたこれらの要素を、むせかえるほどメランコリックな歌モノの中でいかに昇華するか。そのバランス感覚が、独特のヴォーカルと同じくらい川谷の作家性を支えている。 

例えばサビの部分でのヴォーカルの重ね方。1回目、2回目では厚く重ねメロディを印象付ける。と同時に、3回目ではあえて(歌を)重ねないことで注意を惹く構成となっている。あと、地味なようだが、サビでアコースティック・ギターのストロークを演奏に重ねている点も、ともすればストレートなメロディの進行に、印象が逆に弱まりかねないパートを、リズム面から補強しており、納得感がある。現代のポップス・メイカーとしての覚悟、とはさすがに言い過ぎだろうが、このサウンド・クオリティへの配慮は、数多の若手ロック作家の中で、川谷が特に注目を集めた理由だろう、と素直に思える一曲だ。 



2016/05/11

サイレントマジョリティー / 欅坂46





サイマジョ現象にみる女性観


サイレントマジョリティーという言葉は本来、政治における声なき声・静かな多数派といった意味に使われるもので、個人の自我の問題に触れるべきものではない。つまりこの曲で歌われるような『何のために生まれたのか?』といった哲学的な問いは、若者のアイデンティティーの喪失の問題であって、個々人の政治的主張の有無とは関係がないはずである。だから、本来の意味ならば『政治について口を閉じているのは確かだけど、それをひとまとめに没個性だとか空気の読み過ぎだとか言わないでほしい』と拒否反応が返ってくるのが普通である。しかし秋元康は、言葉の意味を巧みにすり変えることでそれを回避した。彼の考える「サイレントマジョリティー」とは、主体的に選択して(危機管理などを理由に)「サイレント」を決め込んでいる人々ではなく、主体性のなさ、積極性のなさ、自由意志の欠如によって声を上げない人間の群れであると仮定した。生きる目的がわからない、自分とは何かがわからない。だから空気にも流されるし、口も塞いでいる。そんな仮想の「サイレントマジョリティー」を秋元康は欅坂46に演じさせたのである。ミュージックビデオの再生回数は記事執筆時点で1000万回を超え、デビューシングルとしては異例の爆発的ヒットとなった。いったいなぜここまでの話題を呼んだのか。この曲の基本となる発想を彼が楽曲として最初に登場させたのは2012年、乃木坂46のシングル「制服のマネキン」である。

《その意思はどこにある? 制服のマネキンよ》

「制服のマネキン」の場合、教師と思われる男性が教え子に対し強引にアプローチをする様子が描かれている。これが転じて、物言わぬアイドルらに対しプロデューサーが意思の覚醒を説き、それをアイドルが(ステージでパフォーマンスすることで)そのまま観衆にスルーパスする構造になっていた。だから「マネキン」とは操り人形であるアイドルのことであって、同時にそれに群がるファンのことでもあった。もっとも、彼がプロデュースするアイドルグループのファンの多くが「自分とはいったい何者なのか?」という精神的課題を「自主的に選んだメンバーを自主的に推している自主的な自分」を発見することで克服していることを、彼が一番よく理解している。「制服のマネキン」が優れているのはこうした若者の発育上の課題を、教師と生徒の関係を描くことで、プロデューサーとアイドルの関係にも、アイドルとファンとの関係にも応用できている点だ。「サイレントマジョリティー」はこの構造をベースに若干の改良が加えられている。

《Yesでいいのか? サイレントマジョリティー》

ここでは前述のような明確な教師役は存在しない。代わりに、歌詞そのものがアイドルらを奮起させる強烈な檄文として機能している。『自由を取り戻せ!さもなくば”ひとまとめ”にされるぞ!』ざっとこういった趣旨の発破をかける詞が並ぶ。すると群れの中からたった一人だけ、拳を大きく突き上げる者が現れたのだ。センターポジションを務める14歳の平手友梨奈である。彼女はここで、人間が主体性を獲得した瞬間の姿を演じてみせる。学校から屋外へと変わった舞台や軍服をモチーフにしたような衣装も、彼女の演技に、より一層の緊張感を与えている。何よりも他のメンバーの表情やメークの”没個性”感に、平手を引き立てようという意図が感じられる。楽曲においては、特にAメロの旋律は女性が歌うには低過ぎるが、却ってそれがローなテンションを的確に演出しているようだ。ポップスとしてはサビでの詞の乗り具合が控えめにも良いとは言えないのは、メッセージへのこだわりが強過ぎるためだろう(カラオケでは盛り上がらないだろう)。そのため詞の主張を、音から映像からパフォーマンスに至るまで、全てが一丸となってバックアップしようという作りになっている。その中で、平手はリーダーシップをとり他のメンバーやファンらを先導してゆく、というシナリオが描かれている。つまり「サイレントマジョリティー」は、自由を促す文章がひとりの少女を変え、そして彼女自身も周りを変えてゆく、という構造となっている。

かくして女性の地位向上や社会進出といった世界的な流れとも呼応するような楽曲が、ある種それとは真逆の価値観を持つアイドル文化の最先端で生まれた。現在、彼女の握手会の列には若い女性が長蛇の列を作っているという。アイドルは時代を映す鏡なのだとすれば、いまの日本が求めているのは、自分の意見を持ち臆さず主体的に発信してゆく女性の姿なのかもしれない。

(荻原 梓)


キメラが殖え続けている!


ポップ・ソングのキメラ性。マイナー調のコードやメロディー、あるいはイントロから曲を盛り上げるクラップ音や、短いピアノのリフ。それらを聴くと、この曲は電化されたフラメンコの一種だと思える。ただ、基調となるビートはフラットな4つ打ちで、電子ドラムのサウンドやオカズの入れ方はロック的。それらの上で歌われるヴォーカルは、ゆったりと優雅にシンコペイトするもので、曲調の激しさとはいささか乖離したリズムを持つ。つまり、この曲の激しくて陰気なサウンドや曲調とは異なる要素が、その歌によって注入されている。このバランス感こそ、この曲の肝だと言えるだろう。 

言葉に反映されている時代性を除去、誰の耳にも明らかな扇動的で説教めいた歌詞と、ゆったりとした歌だけを取り出せば、オールド・スタイルのフォーク・ソングにも聞こえるだろう。逆に言えば、そう聴こえさせないために、他のサウンドが導入されているのかも知れない。キメラは禍々しいが、空を飛び、大地を駆け、肉を裂きたいという人間の欲望が不足なく体現されたシンボルでもある。この曲もまた、伝え手と受け手の期待が不足なく体現されているという意味で、生まれるべくして生まれた一曲だと言える。

現代のポップスは不気味なパスティーシュの塊、という旨のことを述べていたOPNのダニエル・ロパティンはこの曲を、J-POPをどう聴くだろう。彼は、この曲とは全く異なる意味で、歌とトラックの関係性に耳が惹かれるアノーニの『HOPELESSNESS』をプロデュースした。それに比べると、やはり「サイマジョ」は無自覚過ぎる。無自覚には無自覚の良さがあるが、キメラを無自覚に生み出せば、それは一種のマッド・サイエントだということも忘れ難い。



2016/04/18

Cry & Fight / 三浦大知





孤独と葛藤の曲


ソロデビューから去年で10年が経ち、キャリアを振り返りつつ今後を見据えたシングルである。SeihoとUTAによるサウンドは、まるで日本人の音楽とは思えない米国スタンダードで、安室奈美恵の去年のリリースなんかに非常に近いものを感じたが、こういう音をオーバーグラウンドで男一人がアイコン的に背負う例が日本にはまだ存在しないため、J-POPにとっては異端と言えるほど新鮮な聴こえがある。少し前のチルウェイヴのような色彩の配信シングルのアートワークも、その抽象画的な質感のピンクに込められた意味合いはまるで違う。モラトリアム男子が夢想するユートピア表現としてのそれではなく、まるで武士が精神統一するかのように、ちょっとダンディーな魅力を匂わせた男がシャワーを浴びながら「俺はいったいどうすればいいんだ!」と自分に浸るアレだ。自分自身と向き合うパフォーマーとしての孤独と葛藤を、リバーブの効いた幻想的なシンセがこれでもかというくらいドラマチックに描く。しかしそのシンセも切れ味よくカット、ベースがゴリッと鳴り、乱反射する光線のようなSE、そして魂の叫び・・・。三浦はここで、己が悩み苦しむ姿をそのまま表現物として成立させた。

《正解も不正解もない この世界に今》

届く人に届けばよい時代。ダンスが出来て、歌唱力も抜群、顔面も十分。楽な道はいくらでもあっただろう。しかし彼が選んだ道は、道を悩む姿そのものの提示であった。幼くして歌の世界へ飛び込んだ彼が今、ソロ11年目にして何を思うか。極端に言えば誰も共感できないステージにいる彼が、今はただひたすらに格好いい。

(荻原 梓)


悠然としたムードの中で歌われるスポーティなEDM歌謡


泣くことと戦うことがほとんど同時に、あるいは同期して、ともすれば同じ意味としてある世界。前者は"挫折"、後者は"挑戦"という単語に置き換えても良い。ダンスと歌を高いレベルで両立する三浦大知は、ある意味、アスリートのようなアーティストだと言える。そんな彼が見ているのは、やはり優れたアスリートの多くが見るように、マゾヒスティックとも言えるほどストイックな水準の世界なのだろう。

イントロから聴こえる鳥の鳴き声や、中盤での水面に跳ねる水滴の音なども、そんな感覚を強調する。高い成果を上げる、そして上げ続ける。そんな大きな目標を前にすれば、一つの挫折や一つの挑戦はプロセスの一部でしかない。そんな悠然とした感覚が、この、どこまでもスポーティなEDM歌謡のムードを支えている。

トラックのプロデュースを手掛けたのはSeihoとUTAという2人。だが、その2人がどこをどのように分担したのか見当するのが無意味に思えるくらい、「Cry & Fight」の音像は一つに統合されている。終盤のブレイクで、例の変調された高音ヴォイスが歌い上げる時、それが泣き声に聞こえるだろうか。それとも歓喜の叫びに聞こえるだろうか。おそらく、その両方が区別されない領域で、三浦大知は踊り歌っているのだろう。



2016/03/18

PERFECT HUMAN / RADIO FISH





泳ぐか、口を噤むか


お茶の間に初めてEDMを轟かせた「R.Y.U.S.E.I.」が一瞬にして更新されようとしている。ラジオ・フィッシュ旋風はMステに出演して以降、まさに水を得た魚のようにブームを巻き起こしている。泳がされているのはオリラジか、視聴者か。あるいはメディアなのか。

「恋チュン」にしろ「R.Y.U.S.E.I.」にしろ、視聴者による”踊ってみた”動画の投稿がブームの一員であることの証明書として働き、結果的には踊りやすさが無料のプロモーション・ツールとして機能すると”作り手に発見”されて以降、真似し易いキャッチーな振り付け・メロディー・楽曲構造がポップスの世界では正義となった。そして、そうした世界で最もダサい態度が、あーだこーだと考え事をしながら腕を組んでいるタイプの(筆者のような)人間だというのも理解はしている。なぜそこまでお前は踊りたいのかと喰ってかかれば、藤森に「そこにビートがあるからさ。」と爽やかに返されそうだ。

このお題、自分で提案しておきながら後になって書く事があまり無いことに気付き、どうにもこうにも筆が進まなく、提案した手前自らお題を取り下げる訳にもゆかず、かと言って「特にありません。」の8文字で終わらせるのも失礼なので、というか「そういう曲にこそ内心は書き殴りたい事が詰まっているのでは」的な捻くれた論を自分に問い掛けてみたりしながら、正直かなり困っていた。と言うのも筆者の頭を抱えさせたのは、この芸が、割とお笑い芸人からは白い目で見られているのに対し、世間一般やメディアからは意外にも高評価を受けているという各業界の反応の違い、そして、特に音楽関係の筋からは好意的に受け取られている点である。まあ、単純に否定派は口を噤んでいるだけとも言えるが。少なくとも、筆者の目を通した限りではそういう印象があったのだ。元来、リズムネタや歌ネタはそういう傾向があるが、今回は特にそれが強い気がするのは、少し気掛かりであった。

(荻原 梓)


"音ネタ"という時代の徒花


EDM時代の"音ネタ"としてよく出来ている。単にEDMサウンドのパロディであるだけでなく、「武勇伝」のセルフ・パロディでもある。しかも、テレビ・メディアでの華麗な復活を遂げた自分たちのポジションを反映してか、以前よりもさらに過剰な自己主張の歌詞となっている。惜しむらくは、若い世代には「武勇伝」そのものが身に覚えが無いかも知れず、単に2016年の一曲として聴かれているかも知れない点か。

いや、実のところ、この曲には単にお笑い芸人としてだけでなく、シリアスな音楽ユニットとして見られたい、という作り手側の欲望がそこかしこに見て取れる。RADIO FISHというユニット名からして(たとえそれが、単に所属するメンバーの元の名前から取ったというエクスキューズありきのものだとしても)音楽ユニットっぽい。JUVENILEの用意したサウンドも本格的だ。「でも、普通にかっこいいよね?」と言われたいという狙いが、可愛げを感じるくらい透けて見えている。

だが、"単に2016年の一曲"として聴くなら、藤森のラップ・パートをはじめ、いただけない部分も多い。確かに、1番でのシンプルな押韻と、ゴリゴリとしたリフの徹底は一定のドライブ感がある。だが、2番になると譜割は苦しいし、コール・アンド・レスポンスに至っては明らかに浅薄で、作り手の集中力が切れていると思える。ゆえに飽きられるのも早そうだが、きっちり時代の徒花として役割を果たした度胸は評価したい。




2016/03/02

明日への手紙/手嶌葵





人の心をへし折る歌


全体的に順次下降してゆくコード進行は遠い夢に進めども届かないもどかしさを、ピアノの打鍵音すら聴こえる静けさからは孤独に手紙を書き綴るシチュエーションを、(主に序盤で)寄り添うように合流するギターとストリングスは主人公が夢へと歩むうえでも大切な人はそこに確かに居るともの語る。それらは、ほとんど意識することがないほど耳にすっと浸透する。

詞は、未来の自分自身へ向けて「夢を見ることを諦めないで」、「夢がもし叶わなくても故郷はあなたを迎えてくれる」という二つのメッセージを込めた手紙を書く、というシンプルなもの。しかしこの二つのメッセージのうち、手嶌葵の歌声によるものなのか、プロデュースした蔦屋好位置の意向なのか、結果的に「故郷はいつでもあなたを待っている」側面だけが強調されており、人の背中を押す応援歌というよりはむしろ、人の心をへし折る歌としてこの曲は機能しているようである。

少し気になったのは、主人公のことを《いつだって変わらずに》待っているふるさとの風景が、あまりにも典型的な日本人の原風景すぎないかという点である。この曲に登場する、主人公を手招く「諦め」の土地としての故郷、《揺れる麦の穂 あの夕映え》。この謂わゆる「長閑な農村地帯の田園風景」、あるいは「夕暮れ時の麦畑」といった多くの日本人が共通して持つと言われる原風景──そんなものはそもそも存在しないとすら思える──は、昨今の多様化する家族形態や生活環境、人種、ライフスタイルなどを考慮すると少々前時代的にうつる。ジブリ・アニメ的と言えばよいだろうか。というのも、少なくともその点においては現在のインディーズで活動している日本語ロック・バンドやここ数年でデビューした若いアーティストたちの方が、自分たちのある種の世代性を自覚しておりうまく表現できている。何が自分にとっての「帰る場所」なのか。そこを、もう少し工夫してほしかった。

(荻原 梓)

手嶌葵のFight for life感


聴いていてそのブレス音が気になってしょうがなかった。ピアノとストリングスが奏でるイントロを経て、「元気でいますか〈ハ~〉大事な人は出来ましたか〈ハ~〉」と、目一杯息を使ったAメロが続く。総合的には囁くような歌い方とも言えるが、いわゆるウィスパー系とは違う。耳障りではないが、つい耳が行ってしまう、異質な歌い方だと感じた。過去のインタビューを読むと、そうした歌い方には本人も自覚的なようで、ルーツには映画音楽などを通して幼い頃から親しんだというジャズ歌手の影響がありそうだ。

ブレス音は“楽音/雑音”というざっくりとした区分では後者に入る。つまり(理念的な音楽の世界では)ノイズだ。特に現代ならマイキングやエディット次第でいくらでも切ることが出来る。だから、手嶌葵はあえてそれをせず、むしろ意識的に強調している。とひとまず言うことが出来るだろう。(逆に、ブレスが全く不在という曲は、それはそれである種のメッセージを伝えていると言える。)

そこから読み取れる意味は多様だが、ここでは歌の醸す切実さに注目したい。例えば椎名林檎のように、ブレス音を上手くコントロールすることで、ある種のセックス・アピールを打ち出す手法は、歌モノの世界では常套だ。手嶌葵のこの曲はそれと逆で、吐く息の尋常でない量が、“どうにもコントロール出来ない切実さ”のメタ・メッセージとして聴き手に伝わる。癒し系、という巷間の手嶌のイメージとは異なるFight for life感。この曲はそれがエッセンスとしてムードを支えている程度だが、そこがより強く打ち出された時、手嶌のキャリアのギアが一段変わりそうな予感がする。



2016/02/19

両成敗でいいじゃない / ゲスの極み乙女。





不干渉という慈愛を歌ったバンドは、時代に対峙していたのか


ここでいう「両成敗」とは慈愛のことだ。川谷絵音の書いた歌詞は明らかに最近のネット・リンチを想定している。そこにはマツコ・デラックスが「恐ろしい」と表現したとされる、ネットとテレビの組み合わせによる新時代的なバイラル効果も含まれている。

「両成敗」を決めることができるのは裁判官=第三者。そして、ここでいう第三者とは、個人のプライバシーに関わる事件を取り上げたページを、時に嬉々として、時に後ろめたさを感じながら、普段は特に何も感じずに覗き、なんならコメントまで考えてしまう人々のこと。そこでいたずらに当事者を“罰する”行為を、バンドは強くは断罪しない。その代わりに「両成敗」として不干渉を取り決めないか? と、特にその裁判官に提案している。歌詞の主格は、俯瞰者の位置に固定されてはおらず、容易に当事者自身、あるいは裁判官の側にも移る。その移り変わりの速さと流動性は、単に主題が曖昧であるというレベルを超えて、寄る辺ないフィーリングを聴き手に与える。

そのテーマから考えれば、優しい曲とも捉えられるし、実際にそうした曲として届けたいという意図を、「両成敗でいいじゃない」のメロディ・ラインから感じることができる。だが、一方で、その歌い回しや、ささくれ立ったサウンドからは、勝ち気で好戦的な姿勢も読み取れる。思えば、彼らのブレイク点となった「私以外私じゃないの」は、それがマイナンバーのキャンペーンに起用されたことにも端的に表れていたように、日々拡大する日本の新しい個人主義を象徴するような一曲だったし、時代を味方にしたからこそ支持された。そんなバンドが、今度は、少々甘味の強い理想主義的な主題を構えて歌ったのだとすれば、自分が時代の気分に対峙しているのかも知れない、という一種の気負いがバンドの側にあったのではないか、という気もしてくる。

現代の慈愛として、干渉の抑制について歌ったバンドが、その後、あのような事態に追われた(今も追われている)ということは周知の通り。皮肉を通り越して、2016年、ポップス怪談話の様相をも呈している。


過剰なまでに“現代的”(なのに……)


A:負けを認めたくないなら…
A’:信念の上澄みだけを…
B:何かにつけて…
C(1サビ):両成敗が止まらない…
D:大差ないんだって…
B:何かにつけて…
C(2サビ):両成敗が止まらない…
C’(2サビ):両成敗は終わらない…
間奏
C”(落ちサビ):両成敗が止まらない…
C(3サビ):両成敗が止まらない…
E(大サビ):難しく考えるより…

楽曲構造は非常に「現代的」である。スネアロールが止まると歪んだギターのリフ、それに負けじとテクニカルに動くベースが登場するイントロ。ベースはこのバンドの名刺とも言える跳ねるスラップを披露する。好戦的な男性陣の演奏に対し、なだめるようなピアノの旋律とコーラスは場の温度をぐっと引き下げる。サビを終えた後に2番へ突入すると、Aメロを通過せず代わりにDメロが登場する(現代的な構造である)。このDでは、この曲でもっとも印象的なフレーズのひとつとなる《データ処理した言葉は/空気に触れるべきじゃない》が緊張感を込めて歌われる。抽象化され一般化された「勝ち/負け」のある争いをテーマとしつつも、ここでほんのりと焦点が絞られる(おそらくは現代的なテーマである)。間髪入れず2回目のB、そして2サビへ。2サビ以降の主旋律は全てサビなので、曲の半分以上がサビに居続けている感覚を与える(これも近年のJ-POPの傾向である)。また、2サビと3サビの間に挟まれる間奏は、3分40秒ほどの短い曲間のうち40秒近くを占めるため体感的にはかなり長い。ただし、この長尺の間奏部分の前後で曲の世界観に大きな変化があるわけではない。3サビを終えた後、この曲の核心部となるEメロをみせて曲は終わる(”E”まで登場するのもまた現代的と言える)。

ざっと、上記のような構成をとるゲス極の新アルバムのリードトラック「両成敗でいいじゃない」。テンションコードをふんだんに使用した何となく儚く切ないサウンドが川谷の中性的なヴォーカルを支え、曲の世界観を膨らませている。《両成敗が止まらない もう止まらない 呆れちゃうよな》という一見詩的とは思えない言い回しも、テンションコードの多用により少々強引気味にポップスとして成立させている。また”両成敗”という言葉について川谷は、「みんな知っているが普段使うことは滅多にない上に、汎用性があるにも関わらずタイトルなどに使われてこなかったことに着目した(※)」という。こういったコピーライター的センスは評価せざるを得ない。実際、現在の若手バンドの中では人目を惹くタイトルを付ける能力が頭一つ抜けているのは事実であろう。そして、ラストにこの曲の結論として放たれる至言、

難しく考えるより 好きになった方がいいじゃない
好きにならなくても 両成敗でいいじゃない

この結論は、例えばセカオワの《だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ》にも通じる平衡感覚であり、繰り返しになるが「現代的」である。

このように、過度に現代化された楽曲は往々にして広い世代に聴かれるものではない。一般的に、多くの人々に親しまれる楽曲というのは前回の「海の声」のようなスタンダードナンバー的作風の音楽である。そのため、ゲス極のように速いスピードに早口の歌詞やEメロまであるような展開の多い音楽スタイルは、聴かれるターゲットを自ら狭めていると言える。要するに、新し過ぎて若い人にしか聴かれない。しかし、皮肉にも今年の1月にもっとも多くの人々に聴かれたロックミュージックとなってしまったのは、J-POPにとって幸なのか不幸なのか・・・。

※スペースシャワーにて放送された『両成敗 スペシャル』での発言をレビュー用に筆者が改変。

(荻原 梓)


2016/02/09

海の声 / 浦島太郎(桐谷健太)





スマホ世代の苦悩、2010年代的な「会いたさ」


三味線、ピアノ、ストリングスの3楽器から始まり、途中からバンドが合流する非常にシンプルな楽曲構造には音楽的になんら真新しさはない。この曲から敢えて2016年的な切り口を見出すとすれば、CD発売はせずデータ配信のみであり、auユーザー限定で先行配信された(現在はiTunesで購入可能)という点だろうか。加えて、電通社員によって作詞された歌詞に電話会社による「通信」を促すメッセージがしっかりと込められている点も見逃せない。

「海の声が 知りたくて 君の声を 探してる」。だだっ広い海を前に砂浜に座った桐谷健太が吠えるように弾き語る。ああなんだかナチュラル志向でよいですね~。海・山・川!自然回帰、大地讃頌!! あ、でもちょっと寂しいかも。人肌が、恋しい…。そこでキラーフレーズの登場。「会えない そう思うほどに 会いたい が大きくなってゆく」。そんな時でもすぐに会話することができます。そう、iPhoneならね。とでも言いたげな。

さて。「会いたい/声を聞きたい」。これは現代を生きる私たちにとっては非常に重要なテーマである。そもそも私たちは本当に「声を聞きたい」のだろうか。いつから人はこんなにも「会いたく」なったのか。西野カナ以降? それこそ私たちは電話会社のサービスを利用して「会いたい/声を聞きたい」という欲求を満足させているわけだが、私たちは半ば「声を聞けて」しまうがために無駄に「会いたさ」を感じてしまっているのではないか。最早、それは強制的に感じさせられていると言えるくらいに。そう考えると、スマホ世代の苦悩--2010年代的な「会いたさ」--をこの曲は増幅していると言えよう。

ところでこの曲、iTunesのトップチャートに姿を現したところで初めて私は存在を知り、テレビ・コマーシャルとは斯くも遠い存在になったものだなあと改めて実感した。ネット社会の現在であっても未だにテレビ・コマーシャルは音楽を流行らせるパワーがあるのかと、20年くらい前の感覚に戻った気分になった。オレンジレンジ、元ちとせ、SPEED、安室奈美恵など、ひと頃の「沖縄ブーム」も下火になり、今年に入って元THE BOOMの宮沢和史が歌手活動の無期限休止を発表するなど、最近はあまり元気な話題を聞かなくなった沖縄だが、「海の声」に乗ってやってくる沖縄調のメロディーに、ふいにあの頃の沖縄勢の盛り上がりを懐かしんでいる自分がいた。そういえば「あなたに逢いたくて」と連呼していたのはモンパチだったなあ…。

(荻原 梓)

“古い”ヒット・ソング


2015年にブレイクしたauの「三太郎」CMシリーズから、スピンオフ的に生まれた楽曲。元々は“声がよく聞こえる”というキャンペーンに使われたために、やたらと<声>と連呼する歌詞になっている。桐谷健太という恵まれた声質を持つシンガーと、BEGIN(作曲)、山下宏明(編曲)という熟練の作家陣の組わせによって、この曲は、単に使い捨てのノベリティー・ソングという域を超えて、昨年7月のリリースから現在に至る大きなヒットとなっている。

作詞は同シリーズのプランナーもである篠原誠。広告ディレクターがCMの楽曲まで担当すること自体は、熊木杏里「新しい私になって」(作詞:中島信也)や、「グリーンダカラちゃん」(作詞曲:赤松隆一郎)など、とりわけ珍しいことではない。ここでの篠原の歌詞は、CMで桐谷が演じる浦ちゃんこと浦島太郎のキャラクターに合わせて(だよね?)、かなり拙く幼い印象を与える。本来は俳優である桐谷を、歌だけでなく三線(さんしん)の演奏でも参加させたことも同様の狙いがあったのではないか。「海の声」は、一種のアマチュアイズムが楽曲の肝に据えられ、それが前述の作家陣の手練にくるまれることで、ポップス的な強度を帯びている曲だ。

BEGINと山下の仕事は、楽曲の構成を1つとってもJ-POP職人的な気配りが効いている。1番で1度だけ出てくるAメロや、大サビでの1度上への転調。それらがさり気なく、しっかりと良い塩梅に曲の情報量をコントロールしている。ただ、ここまで書いてきたこと全て、J-POPの世界に既にあったもので、そういう意味では「海の声」は“古い”ヒット・ソングだと言える。歌詞の内容としても変わらないことを歌う、変わらないスタイルの曲を求めるリスナー。時勢を思うと、その欲望を全面的に否定することはは難しい--つまり、気持ちは分かる--が、それに作り手が甘んじれば、止めどないスパイラルに入ってしまうだろう。どちらが先に“裏切る”のか? その誠意こそ、いま必要な気がする。


J-POP REVIEW 再開

J-POP REVIEWを再開します。

更新が止まっていたことにも、今回再開することにも大きな理由はありません。ただ、生活環境の変化に伴って、まとまって何かを「レビュー」する機会が個人的に減っていることは、再開する理由の1つかも知れません。このブログを初めて投稿した2013年とは、音楽(ネット)メディアの状況が根本的に変わっている実感もありますが、まずは大きくは何も変えず、コツコツと更新をして行きたいです。

再開にあたって荻原 梓さんに寄稿をお願いしました。新しい「海の声」のレビューは、荻原さんにこのブログに書いて貰った初めての記事です。

前回参加してもらっていた小林 翔さんにもタイミングをみて合流して貰う予定です。その他、参加したいという奇特な方は随時募集しています。Twitterなどで連絡を下さい。

それでは引き続きどうぞお楽しみ下さい。

2013/10/11

E-girls / ごめんなさいのKissing You




E-Girlsの本領を発揮する作品


EXILEの妹分(というか事務所の後輩)としてデビューしたガールズグループ、E-Girls。二十代後半から十代前半まで幅広い年代のメンバーが所属し、アメリカン・ハイスクールのチアリーダーみたいなスポーティなパフォーマンスが特徴のグループだ。これまでも、4枚目のシングル「NEVER ENDING STORY」でオリコン2位を獲得するなど、長くないキャリアに対して十分な成功を収めて来た(ように見える)が、一方で、グループ最大のアピールでもあったその「NEVER〜」がカバー曲だったことも災いして、EXILEの妹分というキャッチフレーズ以上のインパクトを持てないまま、ここまで来ていたという印象も少なからずあった。要するに、どこかパッとしなかった。だが、そんな時期にもいよいよ終わりを告げることになるだろう。本作「ごめんなさいのKissing You」は、彼女たちの一般的なイメージを確立する作品となるはずだ。

テンポが早く、なおかつ裏を強調した軽めのリズムと、スカスカのプロダクションが特徴のこのエレポップで描かれているのは、男友達との食事を浮気と疑われ必死に謝っている女子の心境。シチュエーションだけ聞くと、いわゆる“修羅場”みたいなものを想像するかも知れないけど、それよりは全然かわいいヤツ。逆に言えば、まだまだ「謝れば済む」段階の話だ。チアリーダーめいた賑やかなメロディや、テンポのいいアレンジの展開(途中ダブステップ的なアレンジも登場するが、あくまで曲中の1バリエーションとして、いかめしくなり過ぎて曲の持つヴァイヴを壊さないよう制御されている)などが強調するように、むしろこの曲の中心にあるのは、フワフワと能天気な恋の楽しさの方だろう。サビの後半で、しなっとデレてみせるところの展開も良い。

恋だ愛だと言えば、ふたこと目には「命を掛けて」とか「一生あなたを」みたいな重い言葉が出てくるラブ・ソングに比べて、こういうカジュアルな恋愛ソング(シチュエーションにもひと工夫あるし)が際立って来るのはとても健康的な気がする。

それにしても、こないだのEXILEもそうだけど、LHDって、目新しさは全くないものの、クオリティの高い曲を出してくる印象。母体がavexだからかな? 恥ずかしながら今回まで知らなったんだけど、作曲のCLARABELLは、ビースティーズ絡みのイベントをきっかけにデビューした作家のようで、他の仕事も掘り下げてみたい(あと、余談だけど、ヴィデオは全然Shortじゃなし、アレンジも音源とかなり変わってるので注意!)


(佐藤 優太)

2013/10/04

EXILE / No Limit





EDMの導入が浮き彫りにする、グループの積み上げたもの


自分を信じて挑戦し続ける限り、成長に限界なんてない。というビジネスマンの題目的なメッセージを、EXILEらしい哀愁漂うメロディに乗せて歌うEDM歌謡曲。自信というか度胸というか、そういう威勢の良さがみなぎっているところは勿論、<この体が消えるまで>なんて虚無をちらつかせるところまで含めて、成功者らしいテーマを持った音楽だ。

作曲には4人の名前がクレジットされている。メジャーかアンダーグラウンドかを問わず、数多くのラッパー・歌手のトラックを手がけるビートメイカー BACHLOGIC、R&B系アーティストへの曲提供の多いFAST LANE、そして、安室奈美恵の「Go Round」など今でいうEDMタイプの作品を多く手がけるTesung Kim&ANDREW Choi。一般的にも、EXILEの楽曲にはハウスやバラードのイメージが強いが、「Each Other's Way 〜旅の途中〜」や「24karats STAY GOLD」などBACHLOGICが手がけた曲には比較的ヒップホップ寄りのものが多かっただけに、ブレイクを多用した4つ打ちをベースにした本作を聴いた時、最初はちょっと違和感があった。全然ヒップホップ関係ないけど?と。

で、前述の4名の仕事ぶり手がかりに予想した制作行程は以下の通り。①まずATSUSHIが詞を書き(TAKAHIROのインタビューを読む限り詞先の可能性が高い)②それを元にFAST LANEがメロディを下書きした上で、③Tesung Kim&ANDREW Choiが曲のウワモノのアレンジや全体の構成をまとめて、④BACHLOGICがビートを打ち込んで行った。そう考えると、音色といいフィルのアレンジといい、今作のビートにはアナログっぽい手触りが感じられる(ような気がする)。余談だけど、「EDMっぽいウワモノとヒップホップのビートの組み合わせ」というアイデアは、今年出たKREVAのアルバム『Space』でも採用されていた。

まあファンの95%はそんなこと気にしてないだろうけど、こんな風にあれこれ考えちゃうのも、EDMの粗暴さに全く回収されないヴォーカル2人の歌があってのことだということは絶対記しておきたい。普通この手の曲だと、ヴォーカルが大味なメロディになったり、やたらとエフェクトを掛けたりして、トラックになじませようとするものなんだけど、この曲にはそうした配慮はほとんどない。もっと簡単に言えば、この音楽性に対して歌がうま過ぎるのだ。終盤になって多声コーラスが入って来るのとか…思わず笑っちゃうけど冷静に考えるとかなり変わった展開なんじゃなかろうか。

そもそもEXILEというグループ自体、80-90年代のブラック・コンテンポラリーの系譜に連なるグループとして、ダンス・チューンでありながらしっとりとした歌を聴かせるという、一見矛盾しそうな2面を両立し続けて来たグループだけに、たとえアレンジがEDM側に振れても自分たちの芯はブレさせない。という気合い?業?のようなものが感じられて、センパイさすがっす!みたいな気分になってしまう。やっぱ一朝一夕に積み上げたものじゃないんだよ。

(佐藤 優太)

2013/09/20

Perfume/1mm




アンニュイな気分を引きずるテクノ&B


おぉ、これはカッコいい。まずBPMが110前後というのがいい。やや個人的な意見い寄ってしまうことを承知で書くと、一番グル―ヴしやすいテンポってこのくらいだと思う。けど、こと日本のメインストリームの音楽に関しては、こういうのは案外少ない。さらにこの曲の場合、基本的なリズム構造はハウスの4ビートであるにも関わらず、ハット(金属音?)を1拍目の頭と2拍目の裏に置いてみたり、シンセの出音をアタック(=音の立ち上がりを表すパラメーターね。念のため)を強めにしてパーカッシブに聴かせてみたりと、リズム面で色々と工夫してて、ぱっと聴きではハウスっぽく聴こえないようになっているのも面白い。

楽曲自体も、コード進行を展開させて、肉付け的にアレンジして、というオールドスクールな方法ではなく、メロディやリズムの抜き差しによって曲を組み立てる、ダンス・ミュージック的な作曲法の応用。こういうのを聴くと、やっぱ中田ヤスタカってメインストリームど真ん中で活躍する作曲家としては、かなり異色というか突端だと実感する。英国人テクノ・プロデューサー、サージョンの絶賛にも納得してしまう。向こうでも、ヒップホップをはじめダンス・ミュージック的な作曲スタイル自体は珍しくないものの、ここまで入り組んだものは皆無だもんな。

もちろん純粋なダンス/テクノ音楽として捉えるには、ちょっと展開も多いし各パートも短か過ぎるしで、僕個人としては、もうちょっと恍惚とする部分が長くあって欲しい気もするんだけど、そういうアンバランスさの魅力も分かる。2番で、メインのヴォーカル(主人公)を嘲笑うように勝手に歌い出す変調ヴォコーダーのアイデアとかはかなり好き。

ただ、単発のシングルとしては若干地味かな?と思っていたら、10月にリリースされるアルバムからの先行曲とのこと。タイトルは『LEVEL3』。ふむ。そう言えば、この「1mm」も、日々自分なりに一生懸命にやってても、なんだか何にも上手行く気がしない、いつまでも晴れることは無いかも、みたいなアンニュイな気分を歌った歌詞だし、アルバムは今の日本に漂う「茫洋と悲観的なムード」に対して、何らかのアングルを示す作品になるのかも。アルバムが出る前から深読みするとかバカみたいだけど、きゃりーの『なんだコレクション』にあった、ヒステリックで狂気じみたのテンションと対になるような作品になるのだろうか。なので、年末辺りに両者を関連づけたレビューとかも見てみたいですね。

(佐藤 優太)

2013/09/13

Galileo Galilei/サークルゲーム




幼なじみというコミュニティについて歌った、そよ風のような爽やかな曲


「サークルゲーム」が主題歌となったアニメ『あの日みた花の名前を僕たちはまだ知らない』は、男女6人、幼少期からの幼なじみの友情をテーマにした作品で、本作の歌詞もおおむねその内容になぞらえたものになっている。つまり、“サークルゲーム”というのは一義的にはその幼なじみたちの関係の輪の比喩ということになるだろう。だが、幼少期からの幼なじみ、というのは尾崎雄貴・和樹兄弟に小学生の頃からの友人である佐孝仁司を加えて結成されたGalileo Galilei自体にも言えることだ。だから、この“サークルゲーム”は、彼ら自身に掛かっているとも言える。

幼なじみという小さなコミュニティについて歌った本作で、爽やかで線の細いギターのサウンドは、彼らの根ざすであろうナイーヴなコミュニティ観、その友情を連想させる。あるいは、この曲の1・2番でのAメロの展開——歌メロを中心に、複数の楽器が輪唱的に追いかけっこする1番Aメロ、そして16ビートを基調にディレイの利いたギターやシンセがリズミックに絡まって行く2番Aメロ——は音楽的なバリエーションとして、この曲のポップスとしての魅力を広げると同時に、彼らの目線の先にある人間関係における葛藤や昂揚を表現しているようだ(学校、あるいは会社、あるいは街や国と同じように、友人関係にも幾多の幸福とすれ違いがあるものね)。その一方で、アンセムめいた大らかさで歌われるBメロやサビは、小さなコミュニティならではの一体感を表しているのだろう。


もっとも、この曲はそうした小さな友情の輪をむやみやたら賞賛する曲ではない。むしろ、それが崩壊した後に残る何ものかについても思いを巡らそうという曲である。その終焉を感じながら、その未来について祈ること。いつかそのサークルが消えたとしても(その時は必ずやって来る!)、その願いは残るのではないか?という、いささか感傷的過ぎる問いを、そよ風のような穏やかさと可愛らしさで歌い抜ける一曲。

(佐藤 優太)

2013/09/06

Especia/ミッドナイトConfusion




ソングライターとしてのSAWA


大阪を拠点に活動する6人組のガールズ・グループ、Especia。SCRAMBLES所属のSchtein&Longerが中心となり制作された楽曲は80年代AOR/シティ・ポップ的。甘めのメロディー、かつファンキーな楽曲がいちいちライブ映えして、たまたま見たイベントで一発でハマってしまった。そうした楽曲のイメージと、ど派手で古着的なレトロさを持つ衣装などのイメージから「バブル系」アイドルと呼ばれることも。80年代後半から90年代初頭という実際のバブルの時代と、彼女たちを形作る要素とはずれがあるような気もしなくもないが、彼女たちにとって初シングルとなる『ミッドナイトConfusion』はこれまでの楽曲からぐっと「バブル」に寄せてきた印象。理由は明確で、作詞作曲をSAWAが担当したことによる。

デビュー当初のダンス・ミュージック中心の活動を下敷きにしながら、シンガーソングライターとしてよりポップスに寄せた形で自身のアルバムや、楽曲提供を行うようになったSAWA。いくつもの陽性な音が散りばめられた楽曲は自身/提供いずれかを問わず共通している。それは「ミッドナイトConfusion」にも当てはまる一方で、抑えられた低音、隙間の多いトラック、4ビートを基本とする複雑すぎないリズム、とバブル期のエレポップ(と90年代JPOP)と合致する要素を用いてEspecia向けに仕上げている。

8月の東京でのEspeciaワンマンライブではゲストとして一緒に「ミッドナイトConfusion」を歌っていたけれども、ソングライターSAWAとしての懐の深さを感じさせる良曲だと思う。
(小林 翔)

恋の媚薬 〜不安と昂揚とミラーボール〜


80年代のAORやディスコからの参照で、春から夏にかけて話題をかっさらったEspecia(from 大阪)。と言いつつ、実は僕は以前の作品は未聴。けど今回聴いて、前評判よりモダンな作風だと思った。「Dam-Funk辺りにも通じるモダン・ブギーのサウンドをベースに、メロディや楽曲構成に近年のアイドル・ポップからの影響と批評的な展開も感じられる、非常によく練られたポップス」。多少強引だけど、まずはそんなアウトラインを引いてみる。

イントロはPVの感じそのまんま。メインのフックである「Eyes On Me〜♪」というコーラス、機械的なファンク・ドラムとクリスタライズドされたシンセが同時に登場するスタートから、8小節進んで、メロディに対してちょっと上ずったようなコードが重なってきて、ガリガリガリッと変調するという展開が、楽曲全体のエコー=残響が提示され、それが徐々に調整されて曲に対してフォーカス&チューンインしていくという感じに聴こえる。

で、主人公の女の子。別に恋愛経験が少ないワケじゃないんだけど、どことなくミステリアスな雰囲気クソイケメンに翻弄されっぱなし。しかも、まんざらでも無さげ。むしろ、ままならない恋愛のスリルまで楽しもう。という、一種のファイティング・ポーズすら辞さない。良く言えば、ちょっと健気なビッチ系? 16ビートを基調とした入り組んだビートや、ヴォーカル・メロディを支えるコード音の少なさ(特にヴァーす)が、彼女の感じてる不安を、キラキラッと飛び交うシンセやシンセベースの類いのウワモノが、彼女の感じている昂揚感を、それぞれに楽曲にトレースして行く。

不安と熱中。相反するとも言える(本当は違うけど)二つの感情が入り乱れる様子を描いた一曲に、Especiaチームは『深夜の混乱』と名付けた・・・ん?混乱?ってことは、実はこの子、意外とクラブ慣れしてなくて、ちょっと背伸びしてるだけの、おぼこい子なのかも。とか思えてきた。その男、きっとロクなやつじゃないからやめなよ!とか、妙な親心が沸いて来る、副次的な作用も味わえます。

(佐藤 優太)

2013/08/30

AKB48/恋するフォーチュンクッキー




「国民的アイドル」を本気で目指すAKB48


 アイドル「帝国」AKB48。代名詞ともなり、地上波で生中継されるまでとなった選抜総選挙、今年はよもやとも言えないほどの圧倒的な得票数で指原莉乃が1位となり話題になった。選挙後、プロデューサーの秋元康は「大島優子、渡辺麻友が1位になった時の曲は考えていたが、指原1位の曲はこれから考える」といった発言をしていたけれども、そうして発表された『恋するフォーチュンクッキー』は大島の曲よりもまゆゆの曲よりもはるかに素晴らしいものとなったと断言する。この曲には「国民的アイドル」というコピー先行に見えた言葉を地で行くような普遍性があるからだ。


 4ビートのリズムの上をファンキーなギター、ぶいぶいと拍の裏を取りながらルート進行するベース、トランペット風のシンセと曲の端々でアクセントのようになるストリングス風のシンセ、ハモリの用とひゅーひゅーと盛り上げるようなコーラスと様々な音が賑やかに鳴る「恋するフォーチュンクッキー」。リズムはシンプルだが上に乗る楽器がディスコぽい構成はいわゆるJPOP直前の歌謡曲そのものだ。(順位に対応して露出が増えるというコンセプト上、各メンバーの声は聞き分けられるし、音数自体の情報量も多いので、そこは今っぽいのだけれども)どこかヘタレで後ろ向きな女の子が少しずつ前向きになっていくラブソングは、指原を当て書きしたものだが、それはつまり「普通の」感情を切り取ったものだ。そういった歌を親しみやすいディスコ歌謡が持つ多幸感に乗せAKB48の多数のメンバーで増幅する。この曲に新しさはない。ただ、40代にも50代にも60代にも届くような間口の広さ、お祭り感がはっきりとある。

(小林 翔)


グループアイドルの限界が露になってるような気も・・・


たしかTBSの『音楽の日』が最初だったと思うけど、発表時から主に音楽オタク・評論家の間で話題騒然となったAKB48の最新シングル。「70年代ポップスあるいはフィリーソウルの影響を昇華したゴキゲンな一曲」という意見から「ダフトパンク新作へのJ-POP的回答」みたいな暴論まで、みんなが思い思いの感想を交換し合うのを、同じ音楽オタクとしてとても楽しませてもらった。ちょっと意地悪な言い方すると、普段それだけAKB48の音楽への期待値が低いことの証明なのかも知れないけど(笑)。

たしかに本作はみんなが「俺にもひと言いわせろ」状態になるのも分かるとても良い曲だ。ただ、良い曲であるがゆえにグループアイドルの限界が露になっているという気もする。好きな人がいるのに自分に自信が持てなくて告白できない女の子を主人公としたストーリーが持つパーソナル性が、何十人もの人が同じラインを歌うというAKB48特有のヴォーカル・スタイルによって、掻き消されてしまっているような気がするのだ。

指原のキャラ設定に忠実なだけで、掘り下げが足りない歌詞にも原因はあると思うし、『フゥー!』みたいなコーラスの下世話なパーティ感も本作の魅力をぼやかしている気はする。けど、やはり何よりも違和感を生んでるのは、サビのパートでのあのヴォーカル。「悲しい出来事忘れさせる」という歌詞が、半ば洗脳的なテレビCMを見てる気分にさせるような、あのヴォーカルなのだ。大型グループの宿命とか言えば聞こえはいいけど、こういう作品を前にすると、どうにもナンセンスに映ってしまう。何か良い手はないかね?

(佐藤 優太)

2013/08/23

サザンオールスターズ/ピースとハイライト



サザンオールスターズ復習用ニューシングル


5年間の活動休止を経て結成35周年のタイミングでリリースされたサザンオールスターズ『ピースとハイライト』。前シングルの『I AM YOUR SINGER』が丁度5年前の同時期にリリースされているが、それも2年ぶりのシングルで、要は結成30周年のタイミングであった。

柔らかなシンセの音から始まり、桑田のコーラスに続いてトランペットによるゆったりと展開していくようなテーマがメインのイントロに移る。隙間が多くボーカルが前に出たオールドクラシックなロック風のAメロ、サザンの曲に度々登場するカスタネットのカタカタという音が記号的に使われているようにみえるBメロ、一旦Aメロに戻ってからサビ。サビ後半部分で桑田は裏声に歌い方を変え、アクセントを加える。『ピースとハイライト』から漂うのはまさしく「サザンオールスターズが帰ってきましたよ」という雰囲気だ。ボーカル、ギター、ベース、ドラムといった一般的な4ピース編成に加えてシンセ、パーカッションが元々いるというのも理由ではあるだろうけれども、今作には上で挙げてきたように「サザンらしさ」が意図的に配置されているように見える。そうした曲をやや勿体つけたようなイントロで聞き手を期待させながら聞かせていく。5年間の空白をあっという間に埋めてサザンオールスターズを完璧に思い起こさせるような曲だ。

(小林 翔)


単純なメッセージ・ソングに終始しない、トリックスターの片鱗


エレピの5音による下降フレーズと、エフェクトが掛けられ浮かんでは消えるギター&ベースの音が、星の降る夜を思わせるパートから曲は始まる。3小節目からはコーラスが入ってくるが、幻想的な雰囲気は崩れない。そのコーラスが、後の間奏部への伏線という意味でも重要な音程の揺らぎと通過すると、スネアのアクセントを切っ掛けにイントロは次の段へ。ベースとギターの存在感がぐっと高まり、いよいよバンドは揃い踏み。勇壮なホーンに象徴されるロック・バンドの登場だ。

バンドの登場を盛り上げた後は、桑田圭佑のヴォーカルを引き立てるべく、ヴァースではシンプルなバッキングへと移る。ここで桑田が歌うのは(一聴すると)平和主義に裏打ちされた反戦/反米/政府批判のメッセージを込めた歌詞。こんな情勢だし、色々思うところあって歌詞を綴っているのは分かるが、内容はちょっと大雑把。更に言えば、サザンのようなエスタブリッシュメントが、完成度は高いがポップスのクリシェもたっぷりな王道的ポップ・ロックに乗せて、この手のメッセージを歌うことに、コミットできない人がいるのも分かる。

ただ、前言を覆すようだけど、この曲は単純なメッセージ・ソングに聴こえない部分があって、個人的にはそこが興味深い。特に最終コーラス「愚かな行為も」という歌詞が「愚かな恋も」と掛かっているように聴こえるのとか、邪推かなと思いつつ、過去の過ちを忘れる人の愚かさを絶望すると同時に、そこにニヒルなロマンも感じてるような、サーカスティックな感性/トリックスター的な複雑さを見るようで、ちょっと好き。なのでYouTubeで交わされてるあの手の議論とか、ほぼ100%意味ないよ!

(佐藤 優太)


2013/08/15

夏海/山崎あおい



爽やかに歌われる宙ぶらりんな感情


もちろん、人を好きになったことはある。しかし、その初恋は結局うまく行かなかった。それ以降、恋と呼べるほどの感情を抱ける相手はいない。そうこうしているうちにも夏がやってきて、クラスの友達たちはそれぞれの恋人と遊びに行く計画を立ている。嫉妬とは違う、どちらかと言えば失恋にも似た、仄かな寂しさがこみ上げてくる。そんな宙ぶらりんな感情を持て余したまま、しかし暗くならないよう気丈に振る舞う。山崎あおいが描く本作の主人公はそんな女の子だ。

『夏海』はこの夏のプチヒットとなっているけど、チャートの他の曲と比べてこの曲が突出したのは、「今年の夏もまたひとり~」という歌詞に象徴される主題の明確さゆえだろう。山崎の澄んだ歌声も、その歌詞の持つ切なげな感情を伝えるのに一役買っている。また、コブクロ等との仕事で知られる笹路正徳のプロデュースも、どうにも湿っぽくなりそうなテーマを持った曲に、明るく爽やかなフィーリングを補っている。

歌を支えるバックの演奏も良い。楽曲が進むに連れて細かくアクセントやフレーズを変えて行くのは、いわゆるポップスのクリシェとは言え、主人公の細かな感情の揺れを意識させつつドラマチックに楽曲を盛り上げている。特にラストのミドルエイト〜大サビ〜アウトロの流れには聴き所が多い。

この曲の完成度的には申し分ないけど、リリックを除くと山崎自身の個性が感じ辛いのが難点と言えば難点(本人も公言しているように、そのスタイルにはYUIからの影響が大きい)。また、彼女の武器である歌詞にしても、ちょっと説明的で野暮ったく感じる。テーマ設定における勘の良さみたいなのはありそうなので、それを曲に落とす技術が今後どうやって洗練されて行くのか気になる。


(佐藤 優太)


夏の海で草をはんで疲れた


札幌出身のシンガーソングライター、山崎あおいのシングル『夏海』。アコースティックギターを中心としたミドルテンポの曲にのせて「強いから平気って/また一人になりたがる私/疲れたみたい/今年の夏もまた一人」という歌詞の通り、夏の女の子の切ない気持ちを歌う曲。所々でみせる鼻にかけるような歌い方と、フレーズの最後を喉を絞るように発声する様はYUIの影響が感じられる。ただし、声の質としては山崎の方が伸びやかで丸みがあり、声量も多そう。

歌詞のモチーフ自体は誰もが共感させられざるをえないほど一般的なもの。加藤ミリヤや西野カナが(渋谷という街のイメージと結びついたりして)ギャルの切ない恋愛を歌うのと比べても、その核は概ね変わらない。変わるのは楽曲のイメージを具体化する細々とした要素。そこに包括される形で用いられるサウンドにも違いが出ている。

そういう目ではのっぺらぼうのように見え聞こえてしまうのは事実。とはいえでこの曲では「疲れたみたい」という歌詞に何やら歌謡曲的言葉遣いの匂いがして引っかかった。「疲れた」という自分の状態を「みたい」という、婉曲しながら断定する助動詞をくっつけて、どこか他人事のようにぼんやりと歌う風景は松山千春「恋」(1980)森進一「悲しいけれど」(1987)とかに出てくるものの、以降のJPOPにはほとんど登場しない。もちろん最近ではキマグレンでも言葉自体は入っているので、たまたまの可能性の方が大きいけれども。

それにしても「疲れたみたい/今年の夏もまた一人」とか、最近のJPOPの歌詞、草をはむような及び腰のものが多すぎるような気が。

(小林 翔)


2013/08/09

サマラバ/シド




ヴィジュアル系の中に生き残る90年代


今年活動10周年となるシドのシングル『サマラバ』。いわゆるヴィジュアル系バンドとしてデビュー後、メイク自体は薄くなってはきているけれども、元々のイメージをある程度保ったまま活動してきた印象。ヴィジュアル系、というジャンルはグラムロックとかと同じようにバンドのヴィジュアルに定義が偏っているので音楽的には(ゴシック的な雰囲気を持つV系のバンドが多いにしろ)多種多様で、独特のフリを踊るファンとのライブも含め、今ではアイドルと並べて捉えられることも少なくない。

『サマラバ』は爽やかで夏らしいギターのイントロ、跳ねるようなギター・カッティングの裏で何層にも重なるギターやトランペット的な音色のシンセによるメロ、そこから四つ打ちのサビへと展開していくとにかく賑やかな曲。沢山の音を同時に並べながら組み立て、そこに直球で開放感のあるボーカルを乗せて一気にポップスとしてまとめてしまう。シドのこうした音や感覚は好きなミュージシャンとして黒夢やBOOWY、LUNA SEA、B'zといったバンドを挙げている通り、90年代の歌謡曲・JPOPに直接接続しているものと言っていいだろう。2000年代以降、R&B、ヒップホップといったビートが先行する曲が増えた中で(それでも売れるのはメロディアスな要素を持つものではあったが)数を減らしていた90年代JPOPはヴィジュアル系やアイドル、アニソンへと姿を変えて今に至っているのではないかと妄想をする。





大人になった?V系バンド


カッティング・ギター、スラップベース、ホーンにストリングスをフィーチャーしたディスコ・ロック・サウンド。ただ、基本的には抜き差しを含めたコードの展開と歌、BPMの早いディスコビートが曲を牽引していて、カッティング・ギターにせよスラップ・ベースにせよ、その用法は曲の根幹というよりは飾り。歌謡曲をベースに、モダン・ロックやディスコのアレンジを取り入れた、日本的ミクスチャー・ポップという印象かな。

そんな感じで、トラックにはほとんどV系の要素は残ってないのだけど、ヴォーカルの喉から絞り出すような歌い方には、まだV系の要素が残っている。でも、そもそもV系ヴォーカルのあの特有の声って、青年期に感じる居心地の悪さと、その反動としてのポージングの象徴だと思うんだけど、恋人と出掛ける夏の海で、いつもと違うシチュエーションに、改めて惚れなおしたわ。みたいな光景を描いた本作の中で、主人公が何に違和感を感じてるのか?というか、果たして違和感を感じてるのか?正直よく分からない。

様式美。と言われるとそれまでなんだけど、僕は様式に意味を求める分、様式美には全然興味がない。ディテールにこそ作家の本質が表れると思う。青年が大人になるのは当然で、それは全然悪いことではないのだから、もういっそのこと全部変えてしまって、もっと大文字のポップへと振り切ってもいい。よく「V系のバンドは成功すると次第に化粧が薄くなる(=既存のファンを切っていく)」と言われるけど、ファンよりも芸術に誠実でいるってのは素晴らしいことじゃないか。



2013/08/02

笑顔/いきものがかり



主題歌仕様のいきものがかり


いきものがかり『笑顔』は6thアルバム『I』に先行する形で発売された今年2枚目のシングル。ミディアム・テンポ、どこか切なく歌い映えするメロディー、ポケモンの劇場版の主題歌のタイアップがついている通りの「主題歌仕様」のいきものがかりが聞ける曲。ゼロ年代後半からJ-POPシーンを継続的に支え、様々なタイアップを経験してきた余裕みたいなものが「笑顔」にも見て取れる。

フックするアコギのループとコードを刻むピアノ、ゆったりと響くストリングスがメインで引っ張る曲は癖がなく、親しみやすい。こうした曲の裏でも(音は小さいものの)エッジの効いたエレキギターの音がするのが特徴的。アッパーな曲の方が分かりやすいけれども、いきものがかりはスタンダードなアメリカのロックみたいなものを根底に持っているものの、そこに音色なりフレーズで遊びを差し挟みながら聴きやすいポップスとして提示している。そんなわけで彼彼女たちは実は器用なバンドでもあるが、その器用さが楽曲の力強くストレートなメロディー、軽やかさ、親しみやすさ(ポップスそのもの)に寄与しているところが面白い。そういった意味で『笑顔』はもちろん嫌味のない曲ではあるのだけれども、若干物足りない印象。今年発売したシングルでも『1 2 3〜恋がはじまる〜』は「CM仕様」で遊びのあるポップス。




力の抜けた、さりげない魅力


「日常の会話で使わない言葉は歌詞にも使わない方がいい」
今では疎遠になってしまった、学生時代の友人の言葉だ。10年近く(!)経つが、まだ印象に残っている。(彼も歌詞を書いていた。)恋人への思いとか、家族への感謝の言葉とか、そういう“大切な言葉”を、我々は普段の生活ではほとんど口にしない。では、どこで示すのかと言えば、まず第一に式典事であり、第二に歌の中で、だ。

そう。歌の中で、私たちは、普段気恥ずかしさゆえに口にできない感情を言葉にする。その是非はここでは問わないが、しかし、その友人の法にしたがえば、それは「しない方が良い」ことになる。もちろん芸の世界に絶対はないけど、いきものがかりのいくつかの楽曲の歌詞が、どうにも白々しく聴こえてしまうるのも紛れもない事実だ。それは、全ての音を等価に扱うために、全体的にのっぺりと聴こえてしまいがちな吉岡のヴォーカルにも少なからず原因があったと思う。

そんな風に感じていた人間にとって、本作で聴こえる彼女の歌は魅力的だ。少しコブシが効いていて、ミディアムテンポのバラードに合わせる歌としてはリズミックで、良い意味で身軽さがある。歌を支える演奏もいい。タメの効いたドラム、力の抜けたギター。いとも簡単にこういう完成度の高いポップスを作れてしまう、現在のバンドの抜けっぷりを感じる。この演奏と歌を伴えば、今まではどこか押しつけがましく感じていた彼らの言葉にも、「本当に自然な感情として湧いて来たのだろうな。いや、分かるぜ」という気持ちが芽生えそうになる。

そんな「さりげなさ」が魅力の曲に対し、これ見よがしなピアノやストリングスのアレンジは蛇足だろう。サビ終わりに「ドレミ~♪」と上昇して行くメロディも陳腐で過剰な装飾に感じる。(先ほどの素晴らしい歌も、後半の盛り上がりに向けて段々ノペっとして行く。残念。)もっと裸に近い状態のバンドを、音像に刻んで聴かせて欲しい。あんま期待はしてないけど。



2013/07/26

友達より大事な人/剛力彩芽




プロトタイプのデビュー作  


テレビにドラマに映画にとマルチに活動している剛力彩芽のCDデビューとなるシングル。四つ打ちで縦ノリのメロディアスなサビを持つポップ・ソング。一方そのサビを強調する意図もあってかAメロはベースの表裏がフレーズの途中でひっくり返って突っかかるようなリズムになっている。ベースとボーカルだけをメインにしていることもありユニークだがやや心もとない気配も。  

ボーカルは普段の彼女の声と同様に中性的。率直に、歌唱力で勝負するタイプではないけれども、それ自体は現在のアイドル・ブームを見ても分かる通り、現在ではキャラとか個性として捉えられるべきだろう。ただ、問題なのは彼女の他の仕事と同様に楽曲が無難さへ収斂させられているように見える点だ。例えば「友達よりも大切な人」というタイトル、親友に対する思いを表す歌と分かりやすいがクリシェ的な言葉遣い、こうしたものがいちいち彼女の歌からキャラを奪って、印象をのっぺりとさせてしまう。ちゃんと成立しているポップスであり、楽曲的な面白さも持っているが方向性が定まらず散漫な印象。 

ただし、PVで彼女が見せるダンスはきれきれ。今後、ダンスを糸口に映像とかパフォーマンスを含めた中でどう活動していくかには興味がある。




人口的エクストリーム


ひたすらウェルメイドなサウンドが主流だった時代への反動として、あえて音を整理せずダーティなまま提示するのが最近のJ-POPのトレンド。この曲の、BPM140のイーブン・キックに、オーケストラル・ヒッツ、カノン風のピアノのメロディ、スラップベースなどのポップスのクリシェを適当に盛り込んでみました風のアレンジや、ヴォーカルからコーラスからシンセから、全ての音に強烈に掛かったエフェクトは、おおむねねそのトレンドにのっとったもの。

まあ、要するに“やっつけ”なんだけどと、この曲が面白いのはそれが徹底されているところ。何よりも“いい歌”に価値を置くという文化的な風潮もあって、たとえ女優の片手間的なリリースであっても、どうにかして生身の歌を聴かせようという努力がオリコン・チャートの多くのケースで見られるのだけど、この曲にはそうした配慮はほぼない。むしろ声を一つの素材とみなし、その上からちょっと異常な歪み方をしたシンセを大胆に被せたり、バカバカしいほどに強烈にエフェクトを掛けたりしながら、プラスチックで、プラクティカルで、ちょっとスプラッタなポップスを作るという狙いに、何の躊躇もなく振り切っているようにすら見える。

「友達じゃない」という宣言から始まってそれをひっくり返すという技巧的な部分以上に実は内容の方がぶっ飛んでる、いしわたり淳二の歌詞も面白い。(単に労を避けたのかも知れないが)アウトロが短いのもパンキッシュで潔い。いま、“情”という概念から最も遠いポップ・ソングと言われたらコレだろう。曲の構造がもうちょっとフリーキーだったら、もっと面白かったかも。



2013/07/19

Love Is In The Air/AAA


キラキラ・ミュージカル・アイドル


ミュージカル音楽のようだ、というのが、本作のサビでフィーチャーされた男女混声のコーラス・パートを聴いたときの第一印象。そう、ほんとミュージカルみたい。やたらと技量が高い上に抑揚がハッキリしているため、時々その肉体感すら感じてしまう歌やラップも、ミュージカルの役者のそれとよく似ている気がする。歌にもダンスにも妥協しないというAAAというグループのコンセプト、彼らの所属レコード会社が持つ育成システム、そして何よりも彼ら自身の人並み外れた努力が、彼らにそうした個性を授けたのだろう。アイドルと呼ぶにはかなり異形に映らなくもないが、本来的な意味ではむしろこっちを指すのかも。

彼らの個性を踏まえてかは分からないが、本作はリリックもミュージカル的。大雑把に言えば、“夏と恋”というありがちなテーマを持つリリックなんだけど、主人公の1人称の視点から描かれる“ストーリー・テリング型”の歌詞ではなくて、複数の人物の視点が混在する“群像劇型”の歌詞になっているところが個性的と言えば個性的で、このグループの持ち味にハマってる。

ドッカン・ドッカン打ち鳴らされるハウスのビートや、幾重にも折り重なるシンセのメロディは、そうした群像劇の背景にある開放的なムードを表現しようとしたのだろう。特に、後半に進むにつれ盛り上がっていくシンセのメロディの抜き差しの細かさはなかなかに圧巻・・・なのだが、ヴォーカルを引き立てるためか、それぞれのメロディの分離がイマイチで団子状態に聴こえちゃうのはちょっと残念。実力も個性もあるパフォーマーが揃っているだけに、このあたりのプロダクションとのバランスについて最適値を探すのはなかなかしんどいだろうが、全部がばっちりキマッたときの爆発力もすごそう。




国道ポップス


AAAの37枚目のシングル『Love in The Air』。四つ打ちを基本としたミドルテンポの楽曲で、男女混合のメンバーそれぞれの特徴を生かすため、メロ、サビともに数種類のフレーズがあり、それが淀みなくつながっていく。全編に渡って非常に伸びやかなメロディーと、爽やかで耳障りのいい音作りが印象的。

そればかりを言い過ぎるのは一面的だけれども、AAAには「イニシャルD」の主題歌でデビューして以降、断続的なキーワードとして「車で流して映える音楽」というのがあるように思う。この曲に関しても、細かなプロダクションがメロディーに集中して、リズムはシンプルであり、先にも書いた通りまるでほかの何かを邪魔しないよう「聞き流しやすさ」に注意を払っているかのようだ。それは多分渋滞ばかりの都心ではなく、郊外の国道を気ままに走る風景だろう。(実際のコアなリスナーがどこにあるかは興味のあるところ)

嫌みのない音色、J-POPでは抜き出た歌唱力、男女混合ユニットでのダンス・パフォーマンスも含めた見せ方はどれをとっても完成度が高い。それが今の時代とどう接続できているかということについては少し難しいのかもしれないが、その接点があるとすれば「車」なのではないか。